[2006]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/09/23 13:31

新羅との関係

 『万葉集』第十五巻の前半は、天平八年(西暦736)の遣新羅使節の歌で作られている。この派遣が決まったのは、この年の四月で、使者たちは秋には帰ってこられると気楽に考えていた。

  君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ(3580)

  秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ(3581)

  わが故に 思ひな痩せそ 秋風の 吹かむその月 逢はむものゆゑ(3586)

 しかし、この使節の旅程は嵐などに会い大きく遅れ、対馬を発った時には黄葉の散る季節になっていた。

  あしひきの 山した光る もみぢばの 散の乱(まが)ひは 今日にもあるかも(3700)

  もみぢばは 今はうつろふ 吾妹子が 待たむといひし 時の経ゆけば(3713)

 使者たちは、新羅に派遣されるのを、はじめ気楽に考えていたらしいが、旅が進むにつれて気が重くなり、進行が遅々としてくる。行きたくない気分が充満してくるのである。
 結果を急ぐと、この使節団は新羅に入国を拒否された。門前払いにあったのです。
 異例、非礼な扱いを受けた。帰朝した使者の報告を受けた日本の王朝には、新羅討伐軍を起こすべきだ、という意見も出たと『続日本紀』に記される。

 日本の使節を門前払いにしたことは、新羅王朝が日本の王朝に対し「怒り」を抱いていた結果だろう。
 天平八年(736)と云うのは、新羅の唐に対する朝貢が復活した翌年です。それ以前は、唐と新羅は緊張関係(一触即発)にあったのです。
 日本の朝貢が復活したのは大宝三年(703)でした。それ以来、日本は唐の藩屏国(属国)になっていたのです。この大宝三年から天平八年までに、日本の王朝には新羅を怒らせる何かをやった、と考えられます。

 では新羅を怒らせた原因とは、その痕跡は残されていないのか。
 『万葉集』第三巻の挽歌の部に興味深い歌が残されています。

    七年(天平)、大伴坂上郎女、尼理願が死去(みまか)れるを悲しび嘆きて作る歌

  たくづのの 新羅の国ゆ 人言を 良しと聞こして 問ひ放(さ)くる 親族(うがら)兄弟(はらから) 無き国に 渡り来まして 大君の 敷きます国に うち日さす 京(みやこ)しみみに 里家は 多(さは)にあれど いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く児なす 慕ひ来まして しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ 居まししものを 生けるもの 死ねとふことに 免(まぬ)かれぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なるほどに 佐保河を 朝川渡り 春日野を 背向(そがひ)に見つつ あしひきの 山辺を指して くれくれと 隠りにしかば 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただ一人して しろたへの 衣手干さず 嘆きつつ わが泣く涙 有馬山 雲ゐたなびき 雨に降りきや(460)

    右は、新羅の尼、名を理願といふ。遠く王徳に感じて聖朝に帰化す。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住して、既に数紀(あまたとし)を経たり。
 ここに天平七年を以て、にはかに運病に沈みて、既に泉界に赴く。ここに大家(おほとじ)石川命婦、餌薬(にやく)の事に依りて有馬の温泉に往きて、この喪に会はず。ただ郎女独り留まりて屍柩を葬送する事すでに終わりぬ。よりてこの歌を作りて温泉に贈り入る。

 以上この歌は、題辞と、挽歌と、左注からなっている。
 左注には、新羅の尼理願は、日本の王朝の聖徳を聞き、はるばる奈良の京にやって来て帰化した、と書くが嘘であろう。
 この理願は、新羅王朝の王女だったのではないだろうか。新羅王朝と日本の王朝が婚姻を結ぶ為に送られてきた王女だったのではあるまいか。
 時は、大宝三年以前である。日本も唐と緊張関係にあったのである。新羅と友好関係を結ぶことは、国益にかなっていた。
 日本王朝の皇子の結婚相手として新羅王女を要望したのかもしれない。
 しかし、大宝三年に、日本国の朝貢が受け入れられ、日本が唐の藩屏国になるや、状況は一変したはずである。
 新羅の朝貢が復活するのは天平七年であった。新羅と唐は依然として敵対関係にあったのだ。
 日本の王朝は、唐の目を憚り、新羅王女に出家してもらったのではなかったのか。出家は、世俗の幸せを捨て去ることである。生きながら死んでいることだ。
 新羅国王は、日本の背信を怒り、深く恨んでいたのではないか。
 日本の王朝は、新羅王女(尼理願)の死を、新羅王朝に報告しなければならなかったのではないか。
 この天平七年に、新羅の唐への朝貢は復活していた。日本国への遠慮も必要無くなったのだろう。積年の恨みを天平八年の遣新羅使節にぶっつけたのではなかったか。