[2002]天武天皇の正統性について
唐と赤色の関係
640年代の前半、高句麗、百済の侵略に苦しめられていた新羅王朝は、唐に救援を願い出た。
それに対し唐の太宗は三つの策を示した。(朝鮮史書『三国史記』による)
第一策「契丹(きつたん)や靺鞨(まつかつ)の兵を遼東半島に入れよう。それで新羅は一年ぐらいは楽になるかもしれないが、平和な二国を戦争に巻き込むし、恒久的な解決にはならない。」
第二策「唐の標識である赤い上着と赤い旗を数千あげよう。戦争にこれを用いれば唐軍が援軍に来たと思い敵は逃げるだろう。」
第三策「まず百済を攻めよう。ただし新羅は女王国である故、隣国から軽視されている。自分の一族を送るから新羅の国王にしてはどうか、王一人だけを送るわけにはいかないから軍隊を派遣し、これを守ろう。そうすれば新羅国は安泰であろう。」
このような三策を唐の太宗は新羅に提示したと『三国史記』は記している。当時の東アジアでは、赤色が唐のシンボルカラーであることが常識であったことを示している。唐は帝国であった。世界の中心であったのです。その赤色を周辺の属国群が勝手に使用することなど許されることではなかった。
「壬申の乱」で美濃・尾張両国で近江朝・大友皇子が徴集していた二万の兵が唐軍を助けるための援軍ではなかったかと考える根拠は、彼らが赤色をシンボルカラーに用いたことです。
天武天皇の勝利は、一にも二にもこの大友皇子(弘文天皇)の徴集していた軍隊を、何の抵抗も受けずに手に入れたことにあります。
天皇制の歴史の研究は「壬申の乱」を基点に始めなければなりません。天武の王朝は、大きな不安を抱えて出発しました。唐との約束を反故にしたのです。唐の襲来に備えなければなりませんでした。
早急に日本国内を団結させなければならなかったのです。いつまでも倭国勢力だ、近畿大和王朝だ、といがみあっている余裕はなかった。天武の王朝は強い危機感、緊張を以て出発した。
そんな中で天武天皇を正統化する歴史・神話は創られていきました。