[1993]天武天皇の正統性について
大宝三年(703年)の粟田真人の遣唐使について
この遣唐使は、重大な役割を担って派遣されました。「壬申の乱(672年)」の後三十年ぶりの唐との交流です。「壬申の乱」の年の五月の末日に唐使・郭務宋が離日して以来です。
『旧唐書』日本国伝は、粟田真人の報告を受けて書かれています。
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。或は曰う、倭国自ら雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。
また云う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山在りて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。
長安三年(703)その大臣朝臣真人、来たりて放物を貢す。朝臣真人とは中国の戸部尚書のごとし。進徳冠を冠り、その頂に花を作り、分れて四散せしむ。
身は紫袍を服し、巾を以て腰帯となす。
真人好んで経史を読み、文を属する解し、容姿温雅なり。***」(『旧唐書』より)
唐の史官たちは、粟田真人の能力、人柄を最大級に称賛している。それでも真人は、唐の史官たちを説得することが出来なかったのである。
「入朝する者、多く自ら矜大、実を以て応えず。故に中国是を疑う。***」
日本国の使者である粟田真人には、日本国の定めた公認の歴史しか述べることが許されなかったのだ。
しかし、唐は日本列島情報を豊富に詳細に持っていたのである。倭国は四十年前に戦争した相手国だ。その倭国はどうなったのか、問いただしてものらりくらりと返答を濁すばかり。倭国など知りませんともいう。唐の史官たちは呆れるしかなかった。
大宝三年の遣唐使の派遣までに、天武天皇を正統化する歴史は完成していたのである。その歴史を携えて説明すべく粟田真人は唐に赴いたのである。
持統朝・文武朝で歴史編纂は精力的に進められていた。またこの時期は柿本人麿の作歌活動時期に完全に重なるのである。
天武の命で始まる歴史編纂は、それまでにあった歴史を書き残すのではなく、天武を正統化する為の歴史創造であった。捏造ともいう。
神話も創り直されたのである。人麿は、それまであった神話を歌ったのではない。人麿が歌った故に神話になり、歴史になったのである。
『万葉集』では、人麿は奈良遷都(和銅三年・710年)以前に死んでいるように作られている。大宝三年の遣唐使の派遣が文武朝では非常に大きなイベントであった。唐朝が日本の朝貢をすんなり受け入れてくれるか、心配しなければならなかった。三十年前に、唐の要請(命令)、新羅討伐軍の派兵の約束を反故にしていたのだ。
唐の史官たちを十分に納得させることは出来なかったが、朝貢を快く受け入れてもらった。唐の襲来の心配から完全に開放されたのである。大きな成果であった。
因みに、新羅の唐への朝貢が回復するのは、天平七年・735年である。それまで唐と新羅の戦争状態は続いていた。
人麿は、唐に朝貢を受け入れられたことを一区切りと考えたのではなかったか。自分の役割は終わった、と。
確認できる人麿の最後の歌は「明日香皇女(文武四年・700年没)に奉げた挽歌」である。