[1983]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/09/02 12:11

1977の続きです。

    自ら正体を隠した柿本人麿

 柿本人麿の正体を明らかにすることが何故重要か?
 天武天皇の命で始まる「歴史編纂作業」と人麿の作歌活動は同じ時期に重なり合っている。
 人麿が作歌活動をしているのは、持統朝(687~697)・文武朝(697~707)である。
 修史作業も、この持統朝・文武朝で精力的に進められていたのである。大宝三年(703)の粟田真人の遣唐使は、日本国の由来を唐朝に説明するのが主任務であった。
 つまり、この時まで「日本史」の大枠は完成していたと考えねばならないのである。この「日本史」は、天武天皇を正統化する為のものであり、唐朝にそれを認めてもらうために創られたのである。唐朝を読者に想定して作られたのだ。
 七世紀の後半まで、日本列島には未だ統一王朝は成立していなかった。天智天皇の時、初めて統一王朝が成立したのである。倭国の朝鮮半島出兵の惨敗による自滅で、それは可能になった。
 天智天皇の和風諡号(おくりな)は、天命開分天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)である。初めての統一王者に相応しい諡号である。
 「壬申の乱」は、倭国の大皇弟による近畿大和王朝(日本国)乗っ取り事件であった。
 朝鮮半島では、668年に高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。唐は大帝国である。朝鮮半島の植民地化を企てていた。新羅が勝者として強大化するのを望まなかった。百済残党を援助して、新羅に対抗させるような策謀を巡らしていた。
 遂に新羅は正面切って唐に反旗を掲げたのです。そんな中、671年(天智十年)十一月、唐使・郭務宋が二千の兵を率いて四度目の来日を果たしている。この来日の目的を、倭国に再度の新羅討伐軍の派兵の要請以外に考えることが出来るのか。要請と云うより、命令であった。
 しかし、今や倭国は日本国の臣下である。唐の命令を、日本国に取り次ぐしかなかった。この十二月三日に、天智天皇が亡くなっている。皇位を引き継いだのは、天智天皇の長子の大友皇子(明治になって諡号を送られた弘文天皇)であった。
 大友皇子は、唐の要請を受け入れ、半島に新羅討伐軍を送ることに決めた。
 郭務宋は、672年の五月の末日に帰途についている。
 この五月に、大友皇子は、美濃・尾張両国で徴兵を開始している。この兵達の服に赤い色を目印に付けさせていたという。赤のシンボルカラーは、帝国唐のものであった。周辺の属国は、赤を勝手に用いることなど許されることではなかった。
 天武の勝利は、大友皇子の徴集していた兵を、何の抵抗を受けることなく手に入れたことと、名門大豪族大伴氏が一族を結集して天武の味方に付いたことによる。
 しかしあくまでも乗っ取りであり、騙し討ちであった。天武の勢力は、勝者ではあったが、少数者であった。天智系勢力から見れば、大伴氏は裏切り者であった。大伴氏は、勝者であったが、すみ安い世ではなかった。

 さて人麿である、彼は天武の王朝に全力で賛歌を捧げている。

  大君は 神にしませば 天雲の 雷(雷)の上に 庵らせるかも(235)

 人麿は、明らかに天武勢力の一員である。また七世紀後半まで日本列島には統一王朝は成立していなかったのであり、統一神話も統一歴史も持っていなかったのである。
 天武の命による「修史事業」で始めて「統一神話・統一歴史」が編み出されたのだ。人麿の王朝賛歌は、まだ日本人が知らなかったことを元にして謳われている。彼が修史事業の真っただ中に居なければ不可能である。
 人麿は、それまでにある日本人の信仰を謳ったのではなく、人麿が歌った故に日本人の信仰になったのである。