[1977]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/08/30 14:12

    1966の続きです。   
      自ら正体を隠した柿本人麿

 『万葉集』巻二「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」(207~216)と「吉備の津の采女の死(みまか)りし時、柿本朝臣人麿の作る歌」(217~219)「讃岐の狭岑島(さみねのしま)に、石の中に死かれる人を視て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)は、人麿の亡き妻に奉げた鎮魂の歌であったことを明らかにした。

 人麿の妻の死は、病死などの自然な死に様ではなかった。追い詰められて覚悟を決めた秋の山への出奔であった。
 人麿は、必死に探し求めたが亡骸にすら巡り合うことが出来なかった。

  ***大鳥の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹は居ますと 人のいへば 岩根さくみて なづに来し 好(よ)けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば(213)

 人麿は、妻に懺悔し、鎮魂しなければならなかった。妻が追い詰められ窮地に堕ちていることを十分認識していたのである。

   天飛ぶや 軽の路は 吾妹子(あぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに ***(207)

  人麿は、窮地に堕ちていた妻に、手を差し伸べて救ってやることが出来なかった。人目が怖い、と。世間にばれるのが恐ろしい、と。
 時間が経ち、ほとぼりが覚めたら、また逢えるようになるさ、と。自分の恋心は少しも変わらないのだから、と。
 そんな中、突然妻は失踪したのであった。必死に捜索したが、遂に見つけ出すことが出来なかった。亡骸さえ捜し得なかったのであった。
 人麿は、妻殺しの原罪を負って出発した詩人である。懺悔し、鎮魂する長い旅路を歩まなければならなかったのだ。

 「讃岐の狭岑島に、石の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)までは、明らかに妻に奉げた鎮魂歌と読める。
 この歌の直後に配置されるのが「柿本朝臣人麿、岩見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷(いた)みて作る歌」である。

   鴨山の 岩根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)

 日本人誰でもが目にしたことのある歌である。この歌の直前まで、人麿は亡き妻に鎮魂の歌を捧げていたのである。であるならば、この歌でも、人麿の語り掛けているのは、失踪を遂げ、何処で果てたかもしれない亡き妻に対してではないのか。

 鴨山の岩根を枕にして旅を続けている私を、あなたは何時来るかいつ来るかと待ち続けているのでしょうね。

 つぎの「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのおとめ)の作る歌」(224,225)

   今日今日(けふけふ)と わが待つ君は 石川の貝に(一に云ふ、谷に) 交(まじ)りて ありといはずやも(224)

   直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ(225)

 この妻依羅娘子は、失踪を遂げ、今やあの世の人である亡き妻を想定して歌を作っているのだと、私は読んだ。亡き妻に成り代わって詠んだ歌であると。この歌の直後に置かれている「丹比真人、柿本朝臣人麿の意(こころ)に擬(なづら)へて報(こた)ふる歌」の題詞からも、他人に成り代わって歌を作る伝統があったことが明らかである。

 〔224,225〕の歌が、人麿の亡き妻に成り代わって詠まれた歌であったとすると、それはどのように理解すれば良いのか。
 次回、必ずここから始めます。