[1966]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/08/11 15:42

1963のつづきです。

 副島先生の後に書くのは、大きなプレッシャーを感じます。
このまま書き続けて良いのか、常に自問自答しています。
 日本人がありがたがている「天皇の万世一系」は、易姓革命を無かったことにしただけの論理ではなかったのか。
「壬申の乱」は、明らかに「易姓革命」でした。
王朝の簒奪事件でした。

 しかし、日本の修史は、この明らかな「王朝の簒奪(易姓革命」」を、なかったとしたのです。
 これが「万世一系」の論理です。「革命はなかった」、と云うのが日本教の根本教義(ドグマ)です。

 では革命の有無は、どのような歴史をたどるのでしょう。
「易姓革命」の論理は、徳の有無にあります。
有徳の者が政治を執れば、世は平和で豊かな社会になる、
一方、徳を失った皇帝が政治を執ると、世は乱れ、国民は飢えに苦しむ。
 故に、徳を失った皇帝を倒し、天に有徳の者と認められた者が、新たな王朝を立てるのは、天命に叶った行為である。(つまり、革命の肯定です)
 これが中国の基本的な政治思想である。中国は、徳の有無で政治倫理を律していた。 

 七世紀後半から八世紀にかけて、日本列島に何が起きたのか、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の関係は、どのようなものであったのか。
 
 おかしなことではあるが、万葉集の歌を当時の社会状況と無関係に理解出来る、と、考えている学者たちがいることです(まるで芸術至上主義者のようです)

 人麿の作歌活動と、天武の王朝に於ける「修史事業」は、完全に重なり合っている〔同時進行〕です。

 あまり共感していただけないようですが、中国正史に書かれている「倭国」は、全て(筑紫王朝)の事です。

 ああ!今回は、人麿の「辞世の歌(」を中心に述べる予定でした。
 
 (223)
 鴨山の 岩根しまける 吾をかも しらにと妹が 待ちつつあらむ
   
柿本朝臣人麿、石見の国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌。
 という題字を持っています。

 万葉学の主流の学者たちは、人麿を、石見国の下級地方官吏、と位置付けます。
 しかし、『万葉集』を読んでごらんなさい。

人麿の圧倒的な迫力を。
無名の無学な人間に、人麿の歌が創れた、と云うのだろうか。
 
 天武の命で始まった「修史事業」と「人麻呂の作歌活動」は、完全に重なり合うのである。

 これも偶然と云うのか。

 中国では、徳が在るかないかで倫理が生じます。それが易姓革命の論理である。
しかし、日本では、政治を徳の在る無し、倫理とは無関係にしたのです。
 「壬申の乱」は、明らかに易姓革命でした。大和王朝を倭国の大皇弟(天武天皇)が乗っ取った(簒奪)事件でした。
 しかし、日本の修史は、革命を無いことにしたのした。あったことを無いことにしたのです。
 この修史事業の中心にいたのが柿本人麿です。
人麿以外にこの難事業を遣り遂げられた人材など見つけることは出来ません。
 修史事業は、言語に絶する難事業でした。中国語の漢字の音と訓とを借りて、日本語を書くのです。
 漢字だって、時代と地方で違うのです。
『万葉集』が滅びずに現代に伝えられたのは、本当に奇跡です。日本人は、もっと一生懸命『万葉集』を読むべきなのです。
『万葉集』は、単なる抒情歌集ではありません。より大きくは、叙事歌集です。歴史を秘めているのです。 
 その叙事をこれまでの研究者は誰も理解できなかった。
 当然でしょう、本当の歴史(王朝簒奪)を、無いことにしたのですから。
人麿の長歌は、歴史(真の叙事)と響きあっています。
 日本人は、もっと一生懸命『万葉集』を読まなければなりません。秘められた歴史を暴かなければなりません。