[1963]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/08/04 12:28

柿本人麿の正体(その7)
 
 会員番号3260さん、ありがとうございました。大変励みになります。
 
 前の「人麿の悲劇」のシリーズで「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」(207~216)を検討しました。
 その結果、人麻呂の妻は普通の死ではなく、覚悟の失踪を遂げたのだと結論付けるしかなかった。
 三つの長歌(207,210、213)の後半は、全て人麿が必死で妻を捜し求めている様が歌われている。

  …大鳥の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹(いも)がいます 人の言えば 岩根さくみて なづみ来し 好けくもぞ無き うつせみと 思ひし妹が 灰にてませば(213)

 《訳》大鳥の羽易の山で、あなたの奥さんを見かけた、と人が云うので、岩を踏み砕き難儀して捜しに行ったが、良い事なんか何にもなかった。生きていると信じている妻を、この灰がそのなれの果てだというのだもの。

 妻が失踪せねばならなかった原因もちゃんと書いている。

  天飛(あまと)ぶや 軽の路は 吾妹子(わぎもこ)の 里にしあれば 根もころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて 玉かきる 岩垣淵(いはがきふち)の 隠(こも)りのみ 恋つつあるに・・・(207)

 《訳》(天飛ぶや)軽の路は、吾妻の里がある土地だから、訪ねて行ってじっくり細やかに見ていたいのだけれど、いつも行けば人目が多い、しょっちゅう行けば人にばれてしまう。さねかづらの蔓が分かれても、また一緒になって絡み会うように、しばらくすればまた逢えるようになるだろうと、大船に乗っているような気持ちで安心していた。心の中では変わらずにずうっと愛し続けていたのに、・・・

 人麿は、妻の下を訪れたくても訪れることが出来ない状況が生じていたのです。人の目を恐れた。世間に知られるのが恐ろしかった。
 ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさと、大船に身を任せるように安心していた。心変わりなどしたのでは無い、心の内ではずうっと愛し続けていた、のに。・・・

 人麿の妻は、何か異様な事件に巻き込まれていた、としか考えようがないでしょう。
 そんな折、妻の里から使者が来て、あなたの妻は「もみち葉の 過ぎていにき」と告げられたのです。
 人麿は、愕然とし、妻のお気に入りの場所であった軽の市に走って行き、妻を捜したが見出すことが出来なかった、のです。人麿は、必死になって妻を捜し求めている。妻の死を受け入れていない。

 しかし、私が目にした注釈書の全ては、題詞「妻の死(みまか)りし後、」に囚われて、人麿の妻は既に死んでしまっていることを前提に解釈しているのです。例外はありませんでした。
 だったら、「あなたの奥さんを見かけた」と聞くと、どうして難儀して必死になって捜索に出かけて行くのですか。
 人麿は、容易には妻の死を受け入れることが出来なかったのです。
 
 この連作に続く「吉備津の采女が死りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」(217~219)「讃岐の狭岑(さみね)の島に石の中の死(みまか)れる人を見て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)は、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻に奉げたレクイエム(鎮魂歌)である。
 ここのシリーズは、数ある人麿の作歌中でも特に感動的な歌です。間違いなく日本詩歌の最高峰の一つです。

 問題は、この歌群の直後に置かれている歌です。あまりにも有名な歌です。

   柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷(いた)みて作れる歌

  鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)

 《訳》鴨山の岩根を枕にして横たわっている私を、妻はそうとも知らず待ち続けているのでしょうか。

 人麿の辞世の歌として世に知れ渡っている歌です。しかしですよ、この歌の直前まで人麿は、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻(吾妹子)にレクイエム(鎮魂歌)を捧げ続けていたのです。
 では「鴨山の歌」で人麿が語り掛けている妹(妻)とは、いったい何者なのだ。当時は、複数の妻を持つのは珍しい事ではなかった、とでも言うのだろうか。
 しかし、この直前に置かれている歌群は間違いなく人麿の絶唱です。歌聖人麿が精魂尽して歌い上げた日本詩歌の最高峰です。人麿にとって亡き妻への鎮魂慰霊は、何よりも大事であった。

 鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ

 この歌の妹(妻)も、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻ではないのか。
 鴨山の岩根を枕にして旅を続けている私を、そうとも知らずあの世の妻は、待ち続けているのでしょうか。
 
 次に置かれる「柿本朝臣人麿の死りし時、妻依羅(よさみの)娘子の作れる歌二首」(224~225)の妻も、あの世の妻が、この世の人麿に応える形に作っているのです。
  このことは、次回詳しく述べます。