[1957]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/07/25 11:48

    柿本人麿の正体(その5)

 〔1949〕のつづきです。
 天武の王朝の通奏低音は、天智系勢力(近畿大和王朝)と天武系勢力(倭王朝)の対立抗争です。
『日本書紀』は、天智系勢力の優勢な時(藤原不比等が最高権力者)に完成しました。天智系勢力にとって天武の大和王朝簒奪を正統化する歴史編纂は、気の進む事業ではなかった。故に『日本書紀』の出来は非常に拙劣なものになったのです。
 
 藤原不比等が最高権力者(右大臣)に成っても天智系勢力と天武系勢力は均衡を保っていました。不比等の死後実権を握ったのは、高市皇子(「壬申の乱」の首謀者、天武・持統朝の真の主宰者)の子・長屋王(ながやのおおきみ)でした。この長屋王が神亀六(729)年二月に不比等の四人の息子の謀議で殺害された。この八月に天平と改元しています。

 長屋王は、天武勢力の支柱だったのです。天武勢力にとって大きな敗北でした。勝敗は決したかに見えました。
 前回、天武系勢力の中心は、大伴氏であると述べました。長屋王殺害の時、長屋王の最大の藩屏(家来)である大伴氏はどのように振舞ったのか。

 実は、大伴氏の統領である大伴旅人(和銅七年(714)大納言兼大将軍で亡くなった安麻呂の長男)が都を不在していた。神亀五年太宰の帥(長官)を拝命して筑紫に居たのです。

 『万葉集』を読みますと、大伴旅人の長屋王殺害に対する煩悶が伝わってきます。大伴旅人が長屋王を見捨てた、など云う噂もあったように読み取れます。
どうも大伴旅人と藤原四兄弟の間には、何らかの取引があったようです。旅人は、天平二(730)年の冬、大納言に昇進して都に帰っています。

 太宰の帥と云うと、平安時代の菅原道真を思い浮かべ、閑職、左遷の対象と思うかもしれませんが、奈良時代初期の太宰の帥は、閑職などではなく非常に重要な官でした。新羅と唐朝の和解がいまだ成立していなかったのです。新羅王朝の唐朝に対する朝貢が受け入れられるのは天平七(735)年の事です。半島はいまだ緊張状態にありました。太宰の帥は、今で言えば、防衛大臣と外務大臣を兼ねたようなものでした。

 長屋王の殺害で、天智系勢力と天武系勢力の争いは決着を見たかのようでしたが、天平九年、わずか四か月の間に藤原四家の当主(不比等の四人の息子)が次々と四人とも亡くなってしまいました。当時の王朝人は、これに長屋王の怨霊が荒れ狂うのを見た。
 長屋王の子・鈴鹿王を知太政官に祭り上げ、橘諸兄が左大臣に就きました。橘諸兄は、倭王朝の血を引く人物です。ここに天武勢力が息を吹き返したのです。

 天智系と天武系の抗争は、天平宝字元年(757)橘諸兄の子・奈良麿の乱で奈良麿が殺害されたことで決着を見た、それ以降は、藤原氏同士の主導権争いです。

 私は、どうにかして柿本人麻呂の正体を炙り出したいのです。その為には七世紀後半の歴史を出来るだけ正確に理解する必要があります。しかし現在に日本歴史学は、実にいい加減です。科学、学問と云えるものではありません。仕方なく自分で調べるしかありません。
 柿本人麿が、石見国の地方官吏で亡くなった、と云うのも出鱈目です。現代の多くの学者、歌人たちも人麿の短歌しか読んでいないのです。
 私も以前は、斎藤茂吉翁の『万葉の秀歌百選』とか『私の万葉集』などのアンソロジーしか読んでいませんでした。それでなんとなく『万葉集』が分った気でいたのです。
 今から七年前、不幸に出会って気を紛らわす必要がありました。それで『万葉集』を最初から最後まで読んでみようとしました。ど素人の私には非常な難物でした。一回目、二回目、三回目ぐらいまでは、まるで歯が立ちませんでした。しかし、四回目あたりから俄然面白くなったのです。
 『万葉集』は、単なる歌集ではありません、歴史が秘められているのです。抒情歌集であると同時に叙事歌集でもあるのです。