[1949]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/07/18 12:29

    柿本人麿の正体(その4)

  『日本書紀』は、倭国(筑紫王朝)と日本国(近畿大和王朝)の並立を完全に隠蔽はしていない

 『日本書紀』の斉明紀(西暦655~661)には、倭国と日本国記事が同時に登場している。斉明五(659)年に日本国から派遣された遣唐使が、唐の都長安で倭国の使節たちと衝突事件を起こした、と記されているのだ。非常に興味深い記事である。この時点でも近畿大和王朝が倭国に対し協力を決断していなかったことが分るのだ。
 しかし、このように述べている歴史学者は誰もいない。全ては、大和王朝の日本統一は四世紀ごろには完了していた。倭国と大和王朝は、同一であるの一点張りである。これが天皇教、日本教の中心ドグマである。日本古代史学は宗教の中にあるのであり、科学ではない。故に、自分たちの教義に都合の悪い史実は、見て見ぬふりをする。または、史実を記した史官たちの体裁の悪い誤解、誤りと決め付ける。(例えば『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の併設。『古事記』の偽書説。『古今和歌集』仮名序の偽作説など)

 日本には「易姓革命」はなかった、起きたことはなかった、とするのが『日本書紀』編纂の中心テーマであったのですから、斉明紀に倭国と日本国の記事が同時に残されたことは、非常に不思議なことです。本来なら許されないことです。
 このことを解明するには、天武の王朝(「壬申の乱」(672)で始まり称徳天皇〔770〕の崩御まで)の性格を理解する必要があります。この王朝の通奏低音は、天武(倭国)系勢力と天智(大和王朝)系勢力の抗争にありました。
「壬申の乱」の天武天皇の勝利で始まったのですから、初期(天武・持統朝)の間は、天武系勢力が圧倒的に優勢でした。
 しかし「壬申の乱」と云うのは、倭国の大皇弟(天武)による大和王朝乗っ取り事件です。天武系勢力は少数であり、多数派は天智系勢力でした。
「壬申の乱」の真の主導者、天武・持統朝の真の主宰者であった高市皇子が、持統十(696)年に崩ずるや天武勢力に陰りが射し始めます。
 天武の命で開始された歴史編纂は、天武の大和王朝簒奪を正統化するためのものでした。天武の勢力にとって歴史編纂は、死活的に重要だったのですが、天智系にとっては全情熱を注ぎこむようなものではなかったのです。

 天智系勢力の中心になるのは、藤原氏です。藤原氏の始祖は、天智天皇の片腕であった中臣鎌足の次男・不比等(ふひと)です。不比等以前には藤原氏は存在しません。不比等は、幼時難を逃れるため山背の田辺氏にかくまわれていた、との伝承を持ちます。また、鎌足の長男は出家しています。
 「壬申の乱」の後、近江朝の重臣で斬刑に処されたのは右大臣の中臣金だけでした。他の方々は全て流罪で済みました。これらの事を考えると、天武天皇には、中臣だけは許せない特別な思いがあったのでしょう。
 不比等は、天智天皇の娘たち(持統天皇・元明天皇)に上手に匿われ、大事に育てられたのでしょう。高市皇子が崩御すると、藤原不比等が徐々に頭角を現してきます。
 一方、天武系勢力の中心は大伴氏です。「壬申の乱」の天武の勝利に決定的役割を果たしたのは、大和の名門大豪族大伴氏が結束して天武に付いたことでした。近江朝・大友皇子の全く予期せぬことでした。大伴氏は、確かに勝者でしたが、天智系勢力から見れば、裏切り者です。天智系勢力と天武系勢力の抗争のはざ間で、大伴氏は微妙な立場になって行きます。
 それでも、和銅七(714)年、大納言兼大将軍大伴安麻呂が亡くなるまでは盤石でした。安麻呂は「壬申の乱」の功臣で、高市皇子の懐刀として軍の要として働き、歴史編纂にも深くかかわっていました。和銅元年には藤原不比等が右大臣に就きますが、軍を握っている大伴安麻呂の目が光っていました。
 現在に伝わる『日本書紀』は、養老四(720)年、藤原不比等が最高権力者であったときに完成されたものです。天智系勢力が強くなった時に完成されたもので、歴史編纂意欲が低下した時の産物です。本来なら倭国記事と日本記事の同時記載など許されざる失態です。おそらく天智系の人たちが、故意に両王朝併存の真実を後世に伝えるべく紛れ込ませたのでしょう。

 疲れたので今日はここで止めます。