[1946]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/07/11 13:17

柿本人麿の正体(その3)

 私は七世紀の日本にこだわる。この時代に日本の原型が創られたと確信している。この時代の大事件は、倭国による朝鮮半島出兵、その敗北。(西暦661年8月~663年8月)二年に亘り、倭国の総力を挙げて戦い惨敗したのであった。
 倭国(筑紫王朝)と日本国(近畿大和王朝)は、別国であった。近畿大和王朝は、倭国の後進国として出発していた。
 当時の世界帝国・唐朝は、日本列島の代表を倭国に見ていた。倭国は、その唐を相手に戦争したのである。
 
 日本史学は、倭国を近畿大和王朝としている。その根拠とするのが『日本書紀』が六六一年正月六日に記す「斉明天皇の筑紫行幸記事」である。日本の歴史教科書は、これを例外なく「新羅征討軍の発進。斉明天皇の親征。」と書く。
 大和王朝の天皇が親(みずか)ら戦争の指揮を執るため筑紫に向ったのだと。実際出兵を開始するのがこの八月であるから、いかにも戦争準備の筑紫行幸のようにも見える。
 しかしこの行幸に、既に臨月に入っていた大田皇女を帯同していたのである。『日本書紀』は、海路に就いた二日後、船上で大田皇女が女子を出産した事を記している。
 戦争の為の航海に、どうして臨月の皇女を帯同する必要があったというのだろう。学者によっては、この時、京を大和から筑紫に遷都したなどと述べている方もいるが、全く馬鹿げている。
 大田皇女は、当時の大和王朝の皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)の娘で、大海人皇子(後の天武天皇)に嫁いでいた。また、後の女帝・持統天皇(天武の皇后)の実の姉である。
 私はすでに何度も大海人皇子(天武)は、倭国の大皇弟であると論じてきた。そうであれば全てが辻褄合う。
 倭国の朝鮮半島出兵の目的は、新羅討伐にあった。六五〇年、新羅王朝が唐朝の完全な藩屏国(家来)になったことに端を発していた。
 倭国は、これを新羅王朝の裏切りと捉えた。ここに新羅討伐は、倭王朝の喫緊の課題になっていたのである。
 倭国は、半島南部の百済王朝、新羅王朝を属国視していた。半島出兵は、喫緊の課題ではあったが、倭国の背後には、近年成長の目覚ましい大和王朝が控えていた。長年日本列島の代表王朝であった倭国と云え、単独で出兵に踏み切るのは危険であった。何が何でも大和王朝の協力を取り付ける必要があった。
 最後の切り札として大和を訪れたのが倭国の大皇弟(天武天皇)であったのだ。どのような条件を提示したのか分からないが、大和王朝の協力を取り付けることに成功し、中大兄皇子(天智)の娘と結ばれた。
 斉明天皇の筑紫行幸は、両王朝の同盟が成ったことの披露の為である。大皇弟の子を身籠っていた大田皇女を無事筑紫に送り届けるための旅であった。

 この世紀のもう一つの大事件は「壬申の乱」である。日本史学は、この事件も大和王朝内の叔父(天武天皇)と、甥(天智天皇の長男・大友皇子)の争い、コップの中の嵐であると矮小化し、真実を見ようとしない。
 しかし、この「壬申の乱」は当時の日本を真っ二つにし、一ヶ月にも亘って激しく戦われている。同一王朝内の叔父と甥による極めて内的な皇位継承争いのどこにそれ程のエネルギー引き出す魔力が秘められていたというのだろう。
 日本史学界では「壬申の乱」の研究をやると嫌われ、出世の妨げになるらしい。
 私の見解は「壬申の乱」は、朝鮮半島出兵に大敗北を喫し、大和王朝に援けを求め、大和王朝の天智天皇の臣下となっていた倭国の大皇弟(天武)の大和王朝乗っ取り事件である。
 この見解に立てば『万葉集』の

   天皇(天智)、蒲生野に遊狩(みかり)したまふ時、額田王の作る歌
  
  茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

   皇太子(天武)の答へましし御歌

  紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも(21)

 この両歌の持つ不自然さも氷解できる。大海人皇子は、額田王を人妻と呼びかけているが、『日本書紀』によれば、額田王は天武天皇と結ばれ、その間に十市皇女(大友皇子の妃)を生していた。天武の妃であった額田王は、いつの間にか天智天皇の後宮に入っていたというのである。
 何のことはない、倭国の大皇弟が天智天皇の臣下に為った時、自ら進んで最愛の妃(額田王)と娘(十市皇女)を進呈したのが真相であろう。今や倭国は敗者であった。倭国の治安の維持も全て天智天皇に頼るしかなかったのである。卑屈になる必要があった。何故なら、倭国は筑紫に於いて、大和王朝の国王・斉明天皇を殺害していたのだ。斉明天皇は、中大兄皇子の実母である。

 『万葉集』の理解も、七世紀の真実の歴史を知らねばこれ以上深化させることは出来ないのである。大和王朝を乗っ取った天武天皇は、何が何でも己を正統化する必要があったのである。「壬申の乱」は、明らかに易姓革命である。家臣が主君を滅ぼしたのである。易姓革命の正統性は、主君(帝)が、徳を失ったことに求める。徳を失った皇帝を、天が見放すのだ、と。
 しかし、天武の決起は、完全な騙し討ちであった。正統性のかけらも見出すことが出来ない。
 そこで天武の史官たちは、易姓革命はなかったことにしたのである。革命は、この日本には起きなかった、とする歴史を作り上げ天武天皇の正統性を創造したのである。その史官達の中心にいたのが、歌聖・柿本人麿であった。人麿の正体を解明することは、日本を理解する上で限りなく巨大な意義を有する。