[1942]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/06/16 09:56

柿本人麿の正体(その1)

 以前に何度も指摘したように、中国の正史『旧唐書』は日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併記で創っている。倭国と日本国は、別王朝であると明記する。
 しかし、日本史学は、この「倭国」と「日本国」の併記を『旧唐書』の編者(劉昫887~946)の不体裁な誤解と決め付け、それを無視し、大和王朝の日本統一は四世紀ごろには完了していた、日本列島には近畿大和王朝以外にはなかった、との建前で創っている。

 しかし、西暦661~663年に倭国は朝鮮半島で唐帝国と直接刃を交えていた。二年に亘って唐と戦争したのである。倭国の全力を挙げての総力戦であった。唐帝国と真っ向から渡り合ったのである。そんな倭国を唐の史官たちが誤解などするだろうか。唐と戦争したのは、日本国(近畿大和王朝)ではなく倭国(筑紫王朝)であった、と『旧唐書』の明記するところである。

 七世紀前半の日本列島では倭国の勢力の方が日本国を圧倒していた。しかし強大な唐帝国と戦うには後顧の憂いを一掃いておく必要があった。近年着実に国力を伸長していた日本国(近畿大和王朝)の協力を取り付けることが不可欠であった。倭国が朝鮮半島出兵を決断したのは西暦650年、新羅王朝が唐帝国の完全な臣下に入った時であった。
 
 それ以来、倭国は何度も日本国に協力を要請したが、色よい返事を貰えずにいた。当時近畿大和王朝を仕切っていたのは、皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)である。
 朝鮮半島では、倭国の同盟国・百済王朝は苦戦していた。倭国の半島出兵は緊急の課題になっていた。倭国は、近畿大和王朝の説得の切り札として、倭国の大皇弟(後の天武天皇)を大和王朝に派遣したのであった。西暦660年の初めであった。
 半島では、この年の八月に、唐・新羅連合軍により百済王朝は滅ぼされている。
 現代のように、瞬時に情報が世界を駆け巡る社会ではなかった。大和王朝説得は、半島での百済王朝健在を前提になされたのであった。
 どんな条件を提示したのか不明であるが、大皇弟(天武天皇)は、中大兄皇子(天智天皇)の協力を取り付けることに成功した。
 
 西暦661年、正月六日、斉明天皇(中大兄皇子の母)は筑紫行幸へ出発する。この時、身重の大田皇女(大皇弟に嫁いでいた)を帯同していたと『日本書紀』は記している。
 言うまでもなく『日本書紀』は我が国最初の正史である。「正史」が、海路について二日後、大田皇女が女子を出産したと記すのである。この異常事を、歴史学者たちはどのように説明しているのか。
 何も言っていないのである。完全なる無視。

 総力を挙げての半島出兵は、全面的な敗北に喫した。倭国(筑紫王朝)は、存亡の危機に瀕したのであった。唐軍の襲来は、現実的な脅威であった。倭国は、大和王朝に縋(すが)り付くしかなかったのである。

 今日は、田中角栄と万葉集の関係を明らかにすることが出来なかった。残念である。しかし、まだ諦めたわけではない、