[1903]天武天皇の正統性について
柿本人麿の悲劇(その8)
人麿は旅の歌を多く残している。それを根拠に、人麿は各地の地方官を転々と赴任した(通説)、とか流罪人となり流罪所を時々移された(梅原猛氏説)などと唱えられている。
しかし、東西の歴史の祖(おや)と讃えられている司馬遷、ヘロドトスは、大旅行家でもあった。両人は「自ら足を運び、失われた文明の故地、滅びた王朝の跡を訪ね、その残影、オーラを感じ取ることが歴史を書く者に何よりも大事である」と言っている。
偉大なる歴史家は、大旅行家でもあらねばならないのだ。人麿も同じであろう。天武の王朝の最大の課題は、天武天皇の即位の正統化にあった。「壬申の乱」の天武の決起を正統化しなければならなかったのである。
天武の命で始まる歴史編纂(『日本書紀』編纂)は、その為のものであった。天武は、自らを天智天皇の「同母の弟」と近畿大和王朝の系図の中にはめ込み正統性を獲得したのである。そして日本国の開闢(始まり)以来、近畿大和王朝が日本列島の中心であったとの神話を創ったのである。
しかし、七世紀の半ばでも近畿大和王朝は、日本の中心王朝ではなかった。筑紫に都を置く倭国が日本の中心王朝であった。倭国は朝鮮半島を舞台に中国統一王朝唐と戦争(白村江の戦い)している。唐朝は、戦争の相手は近畿大和王朝(日本国)ではなかった、と明確に認識していた。唐朝が近畿大和王朝(日本国)を日本列島の代表と認定するのは、西暦703年(長安三年)の粟田真人の遣唐使からである。
倭国は総力を挙げて唐に挑んだ。結果は無残な惨敗であった。三万とも云われる倭国軍は壊滅したのであった。倭王朝は一気に国民の信頼を失った。倭国内には王朝に対する深い怨みと強い敵意が渦巻いていた。
中国統一王朝(隋朝、唐朝)に対し対等であると公言し(随書・倭国伝)、唐朝に真正面から戦争を挑んだ誇り高き倭王朝は、存亡の危機に立たされたのであった。近畿大和王朝を頼るしか道はなかった。大和王朝の臣下に為るしかなかったのである。
「壬申の乱」は、倭国の大皇弟(天武天皇)による近畿大和王朝(日本国)の乗っ取り事件である。正義などどこにもありようがない事件であった。しかし、天武はこれを正統化せねばならなかった。大和王朝が日本の唯一の正統王朝であり、その正統な皇位継承者が天武天皇である、との歴史を創作したのであった。
日本列島には、出雲王朝も、筑紫王朝も、吉備王朝もあり王朝の併存時代が長くあったが、それらを大和王朝を頂点とする歴史物語に吸収し、組み換え創り直さねばならなかった。
人麿が、近江、瀬戸内海、筑紫、石見、出雲などに旅したのは当然である。それらの国々の残影、オーラを感じ取るため自ら足を運んでいたのだ。天武の命じた歴史編纂は簡単な作業ではなかった。『万葉集』を読めば明らかであるが、当時人麿以上に想像力、構成力に秀でた人物はいない。歴史編纂作業の中心に柿本人麿がいなかったと考える方が不自然である。
また聖徳太子の問題だが、聖徳太子は『隋書』倭国伝を参考に創られたのである。
“大業三年(607年、推古天皇十五年)、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。
その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」と。
帝、これを見て悦ばず。鴻盧卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。”
以上の記事が『隋書』倭国伝に残されている。日本の教科書で名高い「聖徳太子の対等外交の国書」と書く根拠、出典である。この記事を元に聖徳太子のエピソードは創られたのである。しかし、『隋書』の倭国は、近畿大和王朝ではない。筑紫に都を置く倭国であった。