[1900]副島隆彦先生著『信長イエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』を読む②

田中進二郎 投稿日:2016/03/31 22:51

●副島隆彦先生著『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』を読む②
ーイエズス会が日本にもたらした科学技術をめぐる、徳川幕府とキリシタン大名の暗闘ー

(注)副島隆彦先生の3/30の御投稿が↓にありますので。

最初に前回の投稿で誤りがあったので、訂正させて頂きます。

×「イエズス会のヴァリニャー二が、本能寺の変のあと、「琵琶湖の小島に隠れていた」と
記録されている。」

○「イエズス会の巡察使・オルガンティーノ(1530-1609)が、本能寺の変のあと、「琵琶湖の小島に隠れていた」と記録されている。」

(ヴァリニャーニは本能寺の変の半年ほど前にインドのゴアに帰還していました。)

×金沢市に今も残る辰巳(たつみ)用水も、右近から学んだ板屋兵四郎(いたや ひょうしろう)がわずか1年で正確に工事を完成させた。

○金沢市に残る辰巳用水も、高山右近とともに加賀領内にやってきたイエズス会の宣教師や、技術者たちから学んだ板屋兵四郎が前田家に抜てきされて、わずか1年で正確に工事を完成させた。

(イエズス会やフランシスコ会ーどちらも、ローマ・カトリック教会ーは、高度な測量技術をもち、地図を作ることができた。そして、黒色火薬。キリシタン大名が急速に日本国内に現れた理由の一つが、宣教師たちが当時世界最高の科学技術をもたらしたことだった。)

上記に関連して、前田利家だけでなく、伊達政宗も南蛮人の宣教師を招いて鉱山を開発させていた。
最新刊『政宗の陰謀』(大泉光一著 大空出版 2016年刊)によると、
秀吉も、家康もスペインの鉱山の採掘技術ー灰吹き法ーの技術者集団を送るように、宣教師たちに命じていた。家康は、フランシスコ会(スペイン系)の宣教師ルイス・ソテロ(1574-1624)にそれを期待したが、スペイン帝国が技術者の派遣を断ったことや、スペイン人が幕府のために建造したガレオン船が進水に失敗したことなどもあり、フランシスコ会を冷遇した。イギリス人ウィリアム・アダムズが台頭してくると、家康は本格的に禁教を考え始める。
将軍家から締め出されたソテロは、のちにキリシタンの後藤寿庵(ごとう じゅあん 洗礼名ジョアン)の仲立ちで、伊達政宗の仙台に行く。このソテロは、実は改宗ユダヤ人(コンヴェルソ converso セファルディ系ユダヤ人) であり、スペイン最古の大学・サラマンカ大学で神学(シオロジー theology)や法学などを修め、フランシスコ会に入会した人物である。政宗はこのソテロと共謀して、「日本のキリシタンの王」という地位を、スペイン帝国とローマ法王に認めてもらい、徳川政権を国内のキリシタンと、スペイン帝国の援助で倒す計画を開始した。幕府の目を通商条約締結という名目で欺きながら、密命を帯びた支倉常長を団長とする使節を派遣した。太平洋を横断したのち、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ 新スペイン)、スペイン、ローマで歓迎を受けたソテロ、支倉一行はしかし、目的を果たせなかった。それはフランシスコ会が東日本の宣教を独占しようという、ソテロの野心に気づいたイエズス会(ポルトガル系)が、いち早くローマ教会に通報し、伊達政宗は本当のキリシタンではないことを密告したためだ、と『政宗の陰謀』の著者・大泉光一氏は書いている。これらの記録文書がバチカンはじめカトリック教国に現在も残されている。大泉 氏は、半世紀もかけて支倉使節団に関する、原語の史料を解読したということだ。

政宗は、支倉常長使節団の秘密交渉が失敗した、と知ると倒幕計画のすべての証拠を焼き捨てて、幕府に恭順の意をひたすら示し始める。ここで、伊達政宗は自らが信長たらんとした、若き日からの野望をもはや完全に捨て去って、キリシタンの仮面も捨てて、領内のキリシタンを処刑していった。
(政宗は十代のときから、織田信長に憧れていた。信長そっくりの出で立ちを好んでしていたらしい。が、表面だけ真似して、信長の精神までは引き継がなかった。)

このときまでにすでに伊達家領内には、高山右近やイエズス会宣教師が滞在した加賀・前田藩と同じように、宣教師たちと後藤寿庵たちが入り込み、信仰の共同体が築かれていた。後藤という姓ももともとは、キリシタンが多かった長崎の五島列島から渡ってきたためについたらしい。伊達政宗が晩年につくらせた、貞山堀(ていざんぼり 貞山は政宗の晩年の号)にも、後藤寿庵の技術と算術がものをいった。(貞山堀は、東日本大震災で大きな被害を受けた。)

(奥州の隠れキリシタン殉教の地 動画ー【短編ドキュメンタリー】大籠探訪 キリシタン殉教の地: http://youtu.be/PvRsu0bI80o

政宗が藩内でキリシタン弾圧をはじめると、後藤寿庵も領内で捕らえられ、むごい殺され方をしたという。しかし、この後藤家は、岩手県の水沢で続いていく。生き残った子孫は密かにキリスト教の信仰を続けた。江戸時代には、大槻玄沢、高野長英といった大蘭学者を続々と輩出した。彼らは南蛮人(スペイン・ポルトガル人)の舶来の技術に精通する血筋から出てきていたのだ。南蛮文化が後藤家の中でひそかに蘭学へと変容を遂げていったということが分かる。さらには、大正・昭和の政治家・実業家として有名な、あの後藤新平へとつながっていく。
(成甲書房刊『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』の後藤新平の評伝ー中田安彦氏筆をお読みください。)
 
歴史評論家・落合莞爾(おちあい かんじ)氏のブログには、後藤新平は自分が隠れキリシタンの一族の出である、ということを明かしていた、ということが書かれている。
引用します。

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-12.html
自分は隠れキリシタン」 後藤を生んだ水沢の伏流
(引用開始)

 後藤新平は、水沢伊達家の小姓頭・後藤左伝次の長男として、安政4年(1857)に生まれた。安政3年生まれの南部藩上士の次男・原敬と、同年の日向都城藩士の次男・上原勇作を合わせた3人こそ大正時代の3大政治家で、その気宇と実績は現実に首相に就いた大隈重信・寺内正毅・山本権兵衛らを遥かに凌駕している。台湾政策の実行に関わった児玉と後藤を比べる時、後藤が児玉(というより、薩摩派首脳を除くどの日本人)よりも、1段深くワンワールドに染まっていたと思えるが、理由はその出自であろう。大正中期、上原元帥の命令で特種のケシを栽培し、純質アヘンの生産に励んでいた吉薗周蔵は、後藤新平から数回にわたりケシの栽培・利用に関する協力を求められたが、その際に後藤が指定した密会場所は、たいてい神田や中野のメソジスト教会で、そこで後藤は「自分は隠れキリシタンの家筋で、家には数百年以来の伝承がある」ことを明らかにした。水沢は独自の国際化政策を有した伊達家がキリシタンを集めた地で、水沢キリシタンの主頭・後藤寿庵の直系子孫が後藤新平である。

(引用終わり)

田中進二郎です。
一方で加賀前田藩も、伊達藩と同様に徳川初期政権との厳しい緊張関係にあった。
高山右近とイエズス会宣教師によるキリスト教宣教の影響が大きかったため、幕府は前田家が謀叛の疑いがある、とにらんでいた。前田利家の没後も、利長・利常(としつね)と三代にわたり、幕府は警戒をおこたらなかった。1632年には金沢城内の火薬庫が爆発して、大火が発生し市街地までを焼くという大事件がおこっている。落雷のために起こったことになっている。
だが、幕府の隠密が引き起こした可能性もあるだろう。この大火のあと、防災用の水を得るために、板屋兵四郎を起用して、辰巳用水(逆サイフォン式ー犀川から兼六園に水を汲み上げ、そこから市内へ流れ下っていく)が急ピッチでつくられたのだ(1633年完成)。
前田家の歴代藩主が「忍」という一文字の掛け軸を、奥座敷にかけていたのは有名だ。幕府の鎖国政策完成(1641年出島完成)に向かう頃に、加賀藩は相当ギュウといわされている。三代目藩主・利常は鼻毛を伸ばして、呆けたふりまでした。それでも陰では前田の歴代藩主たちは、山奥の五箇庄(ごかのしょう)で黒色火薬(gunpowder)の原料の塩硝(えんしょう 硝石 硝酸ナトリウム)を作らせ続けていたのである。越中富山の五箇庄と加賀の金沢を結ぶ「塩硝街道」については、故・司馬遼太郎も調査して書いている。金沢に運ばれた塩硝は、木炭と硫黄を練り合わせて火薬にされた。副島本の中で、イエズス会が本能寺の信長を爆殺した際に用いた火薬もこれと同じものであろう。この黒色火薬を加賀藩が生産出来るということは重大だった。

塩硝街道(五箇庄~金沢)↓
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1793168/1802629/97003628

『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』で副島先生は故・八切止夫(やぎり とめお)史観の復活を唱えておられます。その八切止夫が次のように書いている。
『論考八切史観(最終)』からやや長いですが、引用します。
http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1100

(引用開始)

「天文十二年(1543年)種子島に鉄砲伝来」とは周知の事実だが、鉄砲を用いるには火薬がいる。そして当時の九州南部で採れても、主成分の硝石は日本列島では全く[ほとんど?]産出しない。つまり鉄砲の国産は国友鍛冶や根来(ねごろ)の雑賀(さいが)の鍛冶が大量生産したが、用いる火薬はすべて輸入依存だったのである。
 
信長時代はポルトガル船をマカオ経由、秀吉時代はイスパニア品をマニラ経由で輸入した。だから戦国時代というのは、武将や武者故人のバイタリティーで覇を競ったように今ではいわれるが、どうもそうではなく、良質な火薬エージェントをつかんだ戦国大名が、勝利を勝ち取ったもののようである。
 ところが、日本歴史というのは、鉄砲は火薬なしで使用できるものと誤認したのか、これまでそこを誰一人として解明していない。軍需用硝石ほしさに、言葉もわからぬまま宣教師と仲良くしたり洗礼したりした連中までを、「信仰あつき切支丹大名」としてしまう。
(中略)
徳川家は寛永十四年の島原の乱に懲(こ)りて、長崎に出島を築き、渡航許可をオランダ船のみに限定した。ということは、硝石の独占輸入法案で、他への横流しを一切認めぬ禁制をとったことになる。こうなると他の大名やその他にしても、硝石が入手不能では火薬ができぬ。それがなくては鉄砲も大砲も使えない。
 だから幕末になって、長州が上海へ硝石の買付けにいって叛乱するまでは、なんとか天下泰平が続いたのである。
「鎖国」というのはつまり、なにもキリスト教に怯えたためでも何でもなく、硝石を独り占めにして治安維持を図った巧妙な徳川家の政治目的による偽装だったにすぎない。

(引用終わり)

田中進二郎です。八切止夫氏が書いているように、鎖国政策は、徳川幕府による火薬の原料の独占が大きな目的であった。だから加賀の金沢城にあった火薬庫を幕府が爆破したとしても、おかしくはない。

実は、信長も、きわめて早い段階から近江商人とつながって、火薬の入手ルートを確保していた。上洛を果たし、足利義昭を将軍の座に付ける前から(1568年以前)のことらしい。信長が鉄砲を使用したことが出てくるのは、永禄二年(1559年2月)の尾張・岩倉城攻めの時だ。信長はこの戦いで尾張統一を成し遂げた。翌年が、全国に名を轟かせた桶狭間の戦い(1560年)である。そのころにすでに近江国の国友、日野といったところが、鉄砲生産の拠点になっていた。
近江の土倉(高利貸し)から火薬ビジネスに進出していったことで有名なのが、角倉了以(すみのくら りょうい)である。了以は徳川家康の時代にも、朱印状をもらって東南アジアからの硝石や鉛(鉄砲玉の原料)を輸入していた。角倉(すみのくら)というのは、おそらく炭(すみ)ではなく黒色火薬を暗に意味していたのであろう。もともとは吉田姓である。京都の吉田神道もこの一族だった。そして吉田神道は、嵐山から遠くない愛宕山(あたごやま)にある愛宕権現の神主も兼ねていた。副島先生の『イエズス会は信長に爆殺され家康はすり替えられた』とのつながりが見えてくる。

吉田神道は金貸しも愛宕権現で行っていた、そして本能寺の変の直前に、明智光秀が愛宕権現で里村紹巴(さとむら じょうは)らと連歌を詠んだ。

時は今 天(あま)が下なる 五月(さつき)かな

という一句だ。この時、愛宕権現(神社)は明智光秀に合戦のために融資をしたのだ、と上記の副島本 (p141)に書かれている。当時の吉田神社の神主・吉田兼見(よしだ かねみ)は、明智光秀と最も昵懇(じっこん)の間柄だったので、本能寺の変に直接融資をしたのだろう。
だからやはり吉田神道は裏でイエズス会とつながっていた、と考えざるをえないのである。
しかし、吉田兼見は山崎の戦いで、光秀が敗れると、すぐさま「天罰眼前」と言って光秀との関係を絶って、秀吉と接触をはかった。また、『兼見卿日記』に手を入れて記録を改ざんしたことは、明智本にもある。吉田一族は、時の権力者にたくみに取り入って、利益をあげている。

角倉了以ものちに、黒色火薬を使って京都の保津川開削(かいさく)事業を行っている。川岸の大きな岩石を破砕するのに用いられたはずだ。そのほかに、滑車を用いて、岩を引き上げたり、ゼネコンの工事風景さながらだっただろう。
京都の中心を南北に流れる高瀬川も、角倉了以の指揮によって行われた。そうして、交通の利便をはかって、運河や河川の通行料の半分が角倉家に入った。京都の偉人とされている了以は、本当はユダヤ商人のように狡猾(こうかつ)でもあった。

学問道場の六城雅敦さんに教えて頂いた鳴海風(なるみ ふう)著『江戸の天才数学者-世界を驚かせた和算家たち』(新潮選書2012年刊)という本には、角倉了以が、吉田流算術の元祖であった、とある。了以とその息子、素庵(そあん)の二人から算術を学んだのが、和算書のベストセラー『塵劫記』(じんごうき 1627年刊行)を著した吉田光由(みつよし 1598-1672)である。角倉家との血縁もあり、開削工事に加わって難工事を成功させたこともある。もともと、技術屋(エンジニア)だったのだ。だが少年時代に、京都の天主堂で布教していたイタリア人宣教師のカルロ・スピノラから、数学を学んだ可能性がある、と鳴海氏は書いている。(p27)スピノラから、ピタゴラスの定理や、円周率を教わっていたようだ。(p84)イタリア人宣教師たちは、ルネサンス期のイタリアの数学者たちの業績を、デウスの御業と称して、教えただろう。本国ではルネサンス運動を押しつぶしたくせに平気で剽窃(ひょうせつ)だ。

そのスピノラも、禁教令で幕府に迫害されて、長崎で処刑された(1618年)。吉田光由も『塵劫記』が売れれば売れるほど、幕府から隠れキリシタンではないか、という疑いの目で見られるようになり、熊本のキリシタン大名・細川忠興(妻は細川ガラシャ 玉子ーたまこ)を頼ったこともあった。晩年は京の嵯峨野で隠れるように暮らして世を去った、という。

時代は下るが、江戸時代の前半には、徳川幕府は暦を変えるのに、京都の公家たちの権威を借りていた。暦を変えるためには、京都の土御門(つちみかど)家の許可を必要とした。わざわざ、幕府機関の天文方(てんもんがた)のトップに吉田神道や、陰陽道(おんみょうどう)の人間を据えておかなければならなかった。

幕府天文方というのは、↓の六城雅敦さんもお書きになっているように、日本で最初に暦を作った渋川春海(しぶかわ はるみ 安井算哲ともいう 1639-1715)にはじまる。のち1782年に天文台が浅草に設置され、長崎経由で輸入された望遠鏡を用いて、天体観測が開始された。しかし、まだ京都の公家の陰陽師(おんみょうし)や神道家(吉田神道)の末裔たちが天文方のトップにいた。幕府は、彼らを引きずりおろすために、下級武士であった高橋至時(よしとき)という和算の天才を浅草天文台の局長に抜擢した。これは、朝廷側からの猛反発が予想された。だから、この人事を幕府は朝廷に極秘で進めた。老中松平定信もこの計画に加わっていた、という。蘭癖(らんぺき)大名・堀田正敦(ほった まさあつ  1755-1832 若年寄 近江国堅田(かただ)藩主 伊達政宗の子孫)がこの計画の中心だった。

千葉の佐倉の総庄屋・伊能忠敬(1745-1818)も、極貧の至時を資金援助をするために付けられた。しかし伊能忠敬の本当の姿は公儀隠密だ。天文方の蘭学者を監視もしていただろう。あと一人、間重富(はざま しげとみ 大阪の町人・数学者)の三人が中心になって、寛政の改暦事業が行われた (1797年 寛政九年 改暦の実施はその翌年)。この寛政暦は、天文台で実際に天体観測した結果から、膨大な計算をして作り上げた暦である。
(広瀬隆著『文明開化は長崎から』集英社2014年刊を参考にした)

つまり朝廷や吉田神道に対抗して、幕府の蘭癖(らんぺき)大名ー副島先生のことばでいうと、隠れキリシタン大名ーたちが蘭学者たちに命じて、暦を作らせたのだ。この改暦事業の日本の数学史的な意義については、今後、六城雅敦さんが明らかにされるだろう。きっと、寛政のルネサンスと呼ぶにふさわしい大きな出来事だったのだろう。これが、蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)へとつながっていくのである。

ー付記ー
 南蛮の宣教師たちとともにやってきた工人たちの残した遺産というのは、全国的に見ても多い。九州には、長崎の眼鏡橋、熊本県の砥用町(ともち)の通潤橋(つうじゅんきょう)という石橋、鹿児島の鶴丸城の甲突(こうつき)五橋といわれる石橋など。岩永三五郎たち、「肥後の石工」と呼ばれたひとたちが作ったという。岩永三五郎は、薩摩藩に命じられて、敵が攻撃してきたときには、1個の石を取り外すだけで橋が全て崩れる仕掛けのものをつくった。秘密保守のため、三五郎以外の工夫たちは、工事が終わると薩摩藩の侍に斬り殺された、というかわいそうな逸話がある。(金沢の辰巳用水についても、板屋兵四郎と工人たちは加賀藩士に殺された、という説もある。)
しかし、アーチ型の石橋がなぜ日本に忽然(こつぜん)と姿をあらわしたのか?
通潤橋は、現在も農業用水を通す水道橋として現役である。古代ローマ帝国で作られた水道橋とほぼ同じ技術が日本に伝えられたのだろう。そして日本の石工たちに直接、技術(テクニック)を伝えたのは、宣教師ではないだろう。それは、南蛮人の宣教師とともにやって来た、初期フリーメイソン(石工の同業者)たちであったのではないか?だからこそ、これらの橋や、用水の技術が今もって謎に包まれているのだろう。これらは、Godに仕える者だけが知る秘技として、他言は禁止だったはずだ。鹿児島市内にたつ岩永三五郎の像は定規を手に持ち、フリーメイソンであったことを如実に物語っているように私には見える。

(岩永三五郎像の写真ー

田中進二郎拝
shinjintaro@gmail.com