[1891]加藤哲郎氏著『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』を今また 再読する

清野 眞一 投稿日:2016/03/28 12:41

加藤哲郎氏著『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』を今また
再読する
             平凡社新書 2005年7月刊行(現在品切れ)

 昭和天皇免責についての最終的な決定は、日本がポツダム宣言受諾前の19
45年6月にトルーマン大統領と太平洋問題調査会(IPR)のジョン・マッ
クロイたち「賢人会議」で決まったのであり、多くの人々が誤解しているよう
に、敗戦後マッカーサー元帥と昭和天皇とが話し合って決まったのではない

 今なぜ明仁天皇が平和のシンボルとして、激戦地のペリリュー島やパラオそ
してフィリピンに行くのかの謎を解く鍵が、この著作に書かれています。

 1946年、日本に「民主教育」を植え付けるために訪日したアメリカ教育
使節団が皇居を訪れた際、既に「人間宣言」を行っていた裕仁天皇からの強い
要請により、明仁皇太子は、家庭教師として米国人でクエーカー教徒のヴァイ
ニング夫人を付けられたのです。

 こうして皇太子はジミーと呼ばれて、その後4年に渉って徹頭徹尾平和のシ
ンボルとして行動するように躾けられたのです。そしてこの事は、当然の事な
がら父である裕仁天皇の意思でもありました。

 このように敗戦国日本の皇太子に戦勝国であるアメリカ人の家庭教師を付け
る事は、「囲む会」会員の吉田祐二氏が最新刊『天皇家の経済学』(洋泉社)
で的確に捉えていたように、まさに日本が米国の軍門に下った事を何よりも雄
弁に語るもので、それはこの冷徹な事実を裕仁天皇自身が「国策」として受け
入れた事を示すものでありました。

 こうして昭和天皇は自らの意思で戦争と軍備を拒否したのです。記憶で大変
申し訳ない事ですが、副島先生も昭和天皇は自ら座敷牢に入られたと表されて
いた事を思い出します。

 この著作は、2004年に加藤氏自身がアメリカの国立公文書館で発見した
戦略情報局(OSS)の機密文書「日本計画」(最終草稿)についての著作で
す。今でもこの文書の存在が広く知られていない事は、大変残念な事です。

 しかし昨年の安保法案成立に至る安倍政権の状況と、この1年間の明仁天皇
の「平和」のシンボル然とした言動との矛盾が大きなものになっている現在、
既に私自身が10年ほど前に書評したものの、現在の品切れ状態に鑑みその重
要な内容を詳しく書いて残す事にしました。

 この「日本計画」の作成は、1942年6月の時点、つまり真珠湾攻撃から
僅か6ヶ月後の事でしたが、その時点で既に日本を打ち負かした後の戦後日本
の政治体制、つまり「象徴天皇」制を構想した驚くべき計画でした。

勿論、この結論に至る研究は、当然の事ながらその前から行われていました。

 さてここで一寸話を替えます。湾岸戦争の開始日、つまり1991年1月1
7日、アメリカ軍を中心とする多国籍軍は対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐
作戦」を開始して、イラクのバクダットおよび各地の防空施設やミサイル基地
を大規模に空爆しました。

 その日、多国籍軍は宣戦布告なくイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開
始したのです。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイル
によってイラク領内を直接叩く「左フック戦略」と呼ばれ、当時クウェート方
面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固
める事になりました。

かくの如く敵の中心を直ちに撃破する事は軍事作戦の常道です。

 この時、巡航ミサイルが大活躍し、アメリカ海軍は288基の「トマホー
ク」巡航ミサイルを使用し、アメリカ空軍はB―52から35基の対地ミサイ
ルを発射しました。

 日本も太平洋戦争では1944年(昭和19年)11月14日以降、東京は
実に106回もの空襲を受けました。

特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日―26日の5回は大規模でした。

その中でも「東京大空襲」といった場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指します。この3月10日の罹災者は100万人を超えたのです。

 ここで注目すべき事は、開戦以来、皇居はこれまで一度たりとも爆撃された事
はありません。しかし3月10日、東京駅周辺を絨毯爆撃を開始した米軍が全
く意図も想像もしなかった事ですが、東京駅や銀座方面が余りの大火のため、
期せずして皇居にも延焼し戦災に遭ってしまったのです。

 では日米開戦当時、何故イラク戦争のように開戦の当初に、皇居に対する激
しい爆撃・攻撃がなぜされなかったのでしょうか。

 正解は、太平洋戦争では一貫して、皇居は爆撃目標から除外されていたからです。なぜならそもそも米軍には開戦当初から敗戦後の日本には天皇利用計画があり、その為に天皇が居住する皇居を爆撃をしようとの意思は、鼻からアメリカにはなかったからです。

 その計画の存在とその狙いを徹底して解明した本が、この著作です。その意
味において天皇制は、つまり「国体」は敗戦後占領軍のマッカーサーたちと当
時の天皇を始めとする日本側の必死の努力と折衝によって辛うじて「護持」さ
れたのではなく、その内実はアメリカの主体的な決定による「日本計画」によ
り、ただただ利用されたにすぎません。

 その証拠にマッカーサーの軍事秘書官、つまり日米開戦後にフィリピンから
オーストラリアのブリスベンまで退却していた南西太平洋軍司令官マッカーサ
ーに請われたボナー・フェラーズは、1943年9月からマッカーサー司令部
統合計画本部長に就任、マッカーサーの軍事秘書、PWB=心理作戦本部長と
して活躍していたのです。

 映画「終戦のエンペラー」で一躍有名になったフェラーズは日本通として、
その映画の中ではマッカーサーの指令により「戦争責任者を特定せよ」との指
令を受けて行動し、結果的に天皇を救った人物として描かれております。しか
しマッカーサー司令部に赴任する直前まで戦略情報局(OSS)に努めていた
事は伏せられていたのです。

 それでは、本書の章別構成を紹介しておきます。

 プロローグ
 第一章 象徴天皇制を巡る情報戦
 第二章 一九四二年六月の米国[日本計画]―最終草稿の発見
 第三章 戦時米国の情報戦体制―戦略情報局(OSS)の調査分析部
 第四章 「敵国日本」の百科全書―真珠湾攻撃時の調査分析部極東局
 第五章 「平和の象徴」天皇観の形成―「日本計画」第一・第二草稿
 第六章 もう一つの源流―情報調整局(COI)の「四二年テーゼ」
 第七章 第三の系譜―英米共同計画アウトライン
 第八章 「日本計画」と「ドラゴン計画」―対中国・朝鮮戦略との連動
 第九章 「日本計画」をめぐるOSS対OWI―マッカーサー書簡の意味
 第十章 「日本計画」と象徴天皇制のその後―心理戦・情報戦は続く
 エピローグ―研究案内を兼ねて

 以上ですが、250ページに満たない小著ながら、その丁寧で全面的な考察
に私などは驚かされます。それでは章ごとに短評をつけてゆきましょう。

 プロローグでは、話の切り出しとして情報「戦争はなお続いている」、そし
て米国文化が日常生活に深く浸透しているが、その需要の受け皿が「象徴天皇
制、天皇制民主主義」だと提起しています。

 第一章では、改憲・論憲・護憲・女性天皇をめぐる情報戦を紹介して、今で
は天皇制そのものを問う政治的「共和派」ほとんどみられないとした上で、現
日本国憲法制定時には当時の日本政府と民主化・非軍事化を強力に推進する占
領軍とのせめぎ合いの焦点として天皇制があった事を示しました。

 そして昭和天皇が一九五三年以降も「米国の駐留が引き続き必要」と発言していた事が米国側資料から明らかになったと続け、「天皇を利用する」米軍戦略文書が発見された事を明らかにしたのです。

 これがCIAの前身である戦略情報局(OSS)の機密文章で「一九四二年
六月、情報工作の一環として昭和天皇を『平和のシンボル(象徴)として利用
する』計画を立て」いました。

 同年八月五日付でこの「日本計画」に寄せたマッカーサーメモも見つかりました事も書かれています。

 第二章では、話の切り出しとして当年九月に後の駐日大使・ライシャワーが
書いた日米戦争勝利後の「ヒロヒトを中心とした傀儡政権」を紹介し、その構
想自体が戦略情報局(OSS)の「日本計画」の影響下にあったとしました。

 この計画は「ドノヴァン」文書といわれる文書綴りの中の一つで、起草者は陸
軍情報部心理戦争課長のソルバート大佐です。

「シンボルとしての天皇利用」の発想は陸軍情報部ではなく、情報調整局(C
OI)調査分析部(R&A)極東課と思われ、チャールズ・B・ファーズが中
心であり、彼には指導教官ケネス・W・コールグローブに影響を受けている。
この教官は新渡戸稲造の影響下にありました。

 新渡戸は「天皇は国民の代表であり、国民統合のシンボル」と発言して、米国に天皇シンボル論を教え込んだ人物です。

「日本計画」には、三種の草稿があり、最終稿では連合軍の軍事戦略を助ける
ための四つの政策目標と八つの宣伝目的が設定されました。

 そしてより個別的な一一項目の宣伝目的が設定されたのですが、その最大のものは「天皇を平和のシンボルとして利用する」です。

 つまり日米戦争に導いた日本の軍部と「天皇・皇室を含む」国民との間に楔
を打ち込み、「軍事独裁打倒」に力を集中させる方針が確立しました。

 ここに第一に天皇制存続、第二に戦後日本の繁栄=資本主義再建という、GHQの占領で実現する二本柱の方向が示唆されたのです。

 こうした視点から明治以来のアジア侵略は免罪され、明治天皇は「立憲君
主」と美化されて、軍部を排除した後昭和天皇の下での繁栄での自由と繁栄が
保証されました。

 ここで注意されなければならないのは、日本へのある種の畏敬と愛情からそ
の判断が成されたのではなく、戦略的な「天皇の象徴的側面」の利用価値から
出たものだという事実です。

 第三章では、今日「情報戦」と呼ばれる国家間の情報的側面をイギリスは
「政治戦」、アメリカは「心理戦」と呼んでいた事と、アメリカにおける情報
機関の創設と発展の歴史とそれに関わる機密文書の公開・閲覧について述べて
います。

 第四章では、真珠湾攻撃時の調査分析部極東局の関係文書が膨大で徹底的に
敵国の全容解明に迫っていたものである事を述べています。日本の階級分析に
は、マルクス主義的な階級・階層分析も積極的に取り入れており、『日本資本
主義発達史講座』を利用した上での「皇室、貴族、官僚、ビックビジネス、地
主、小ビジネス、都市労働者、農民、朝鮮人、エタ」党の社会的身分の分析す
ら進めていたのです。

 こうした研究から「天皇でも共産主義でも勝利のために利用する」視点が出
て来ました。特に日本の国民性分析から「エタ」=被差別部落民や朝鮮人、共
産主義者などのマイノリティ利用戦略が考えられていた事は注目に値します。

 第五章では、「日本計画」の第一・第二草稿について書かれています。第一
草稿での階級分析と天皇利用については、シンボルとして利用すために政府と
普通の民衆との間に分裂を作り出す戦略が策定されたのです。

 その際、日本の民衆が持つナチスとの同一視には不快感を持つ事も考慮され
ました。そのため、軍部主導の戦争は日本の長い伝統および立憲君主制からの
逸脱だとのプロパガンダが使われる事になったのです。

 その他、支配者内部のあらゆる対立を促進する事も考慮されました。例えば
極端な軍国主義者対ビック・ビジネス、極端な軍国主義者対宮中グループ、陸
軍対海軍、陸軍内部の派閥等々です。実に考え抜かれた方針ではないですか。

 第六章では、「日本計画」には情報調整局(COI)の草案もあった事が書か
れています。

 この計画は英米共同作戦文書の系列にあり、対中国向けの「ドラゴン計
画」、対朝鮮向けの「オリビア計画」と一体のものでした。加藤氏は、この計
画をコミンテルンの三二テーゼに習って四二テーゼと命名しています。

 この計画は、日本に「二度と侵略を許さない」ような日本の天皇をシンボルとする「真の代表政府」を作る事を目的としていました。このための方策として、
「悪い助言者」が天皇を欺き起こしたとの方便が使われたのです。

 こうしてこれ以降、天皇を誹謗する事や攻撃する事は御法度になりました。

 第七章では、「日本計画」には英国政府と軍・情報機関の深い関与がある事
が書かれています。両国の間にはインドを挟んで若干の対立があったが、「シ
ンボルとしての天皇利用」の点においては米英共同戦略になったのです。

 第八章では、一九四二年四月二十日、情報調整局(COI)対外情報部(FIS)
指令として「皇居への爆撃は避けるべきだ」とし「東京の心臓部に位置する皇
居へのいかなる可能なダメージも、話題にしてはならない」と明言されていた
事を明らかに致しました。

 その後アメリカで情報調整局(COI)が戦略情報局(OSS)と戦時情報局
(OWI)とに二分された事により、「日本計画」完成の主導権争いが起こって
参謀本部に送られる事なく、「日本計画」は同年八月に撤回・凍結されて棚上
げとなったのです。しかしアジア戦略策定のため、対中国計画(ドラゴン計
画)および対朝鮮計画(オリビア計画)が作成される過程で、第四の「日本計
画」が浮上し「象徴天皇の利用」こそ明言されなかったものの、「代表制立憲
政府への復帰」が戦略目的とされたのです。

 ついでに書いておけば、オリビア計画は朝鮮にはガンジーがいないとされて
朝鮮戦争まで温存されました。

 第九章では、米陸軍の「日本計画」と戦略情報局(OSS)の「ドラゴン計
画」との衝突が論じられています。戦略情報局(OSS)のドノバァン長官は、
参謀本部でも検討していた「ドラゴン計画」の中での「日本計画」とソルバー
ト大佐の「日本計画」(最終草稿)との調整が必要となり、更に研究する事で
戦略情報局(OSS)の側近テイラーと合意したのです。

 こうして「日本計画」は根本的に書き換えられたのですが、再度棚上げされ
ます。この間英国との協議も進み、戦時情報局(OWI)内部でも「英米対日心
理戦計画アウトライン」の策定に踏み切りました。引き続き「皇居への攻撃は
避ける事」とされながら。

一九四二年十月十一日、心理戦共同委員会小委員会メモにはマッカーサーから
の二通の機密電報が着いています。そこには「心理戦は、プロパガンダと破壊
活動その他の手段と組み合わせて使用する戦略の特殊な形態である」との指摘
とプロパガンダと破壊活動を結びつけるには「前線における心理戦指令系統が
独自に必要だ」とあったのです。

 こうして戦略情報局(OSS)に勤務経験のある象徴天皇制存続に重要な役割
を果たすボナー・フェラーズがマッカーサーの下に行く事になったのでした。
勿論ボナー・フェラーズは、「ドラゴン計画」も「日本計画」も知悉していま
す。象徴天皇制の利用は既定です。

 第十章では、これまでの研究成果である全百三十二頁三部構成の「日本に対
する心理戦争計画立案のための社会出来・心理的情報概観」の内容が書かれて
います。

 エピローグでは、従来の日本の研究が米国の国務省外交文書による物が大半
を占めている事を俯瞰した後、通説の陥穽となる米国陸・海軍、戦時貿易省、
さらには大統領補佐官などの多角的ルートで、中でも戦略情報局(OSS)の
「日本計画」が重要視されなければならないと強調しています。

 ジョン・ダワーは、ピューリッツアー賞を受賞した『敗北を抱きしめて』の
中で占領軍の天皇政策について、「なかでも最重要の人物は、マッカーサーの
軍事秘書官であり、心理戦の責任者でもあったボナー・フェラーズ准将であ
る」と書いてあります。

 続けてダワーは、このボナー・フェラーズが平和主義のクエーカー教徒であ
る事、「終戦のエンペラー」の原作となった『陛下をお救い下さい』を書いた
河合道とラフカディオ・ハーンとフェラーズとの麗しい関係も書いています。

 しかし彼が実際に戦略情報局(OSS)の「心臓」にあたる心理作戦計画本部
にいた事、そして極東のみならず世界全体での対米心理戦略立案で重要な役割
を果たしていた事を伏せています。ボナー・フェラーズはこの映画の中で一面
的に描枯れたようにではなく、まさに全面的に捉えなければ成りません。

 確かに「映画」で描かれたようにボナー・フェラーズと、占領当時恵泉女学
園の校長をしていた河合道との活躍によって、「国体」は残ったかのようで
す。その訴追を免れるための策動の一環として、昭和天皇『独白録』は英語版
(フェラーズ所有)と日本語版の二つがあるのです。しかし真実をいえば、
「『国体』は護持されたのではな」く「ただ利用されただけ」なのです。

 昭和天皇に対する最終的な決定は、1945年6月にトルーマン大統領と太
平洋問題調査会(IPR)のジョン・マックロイたち「賢人会議」で決まった
のであり、多くの人々が誤解しているようにマッカーサー元帥と昭和天皇とが
話し合って決めたのではありません。

 先にも引用しておきましたが、『天皇家の経済学』(洋泉社)の中で、「囲
む会」会員の吉田祐二氏は本邦未訳の『The Wise Men』から、以上の経緯を氏
自らの試訳として、214ページに紹介しています。

 当然の事ながらボナー・フェラーズは勿論の事、マッカーサーですらこの日
本計画の存在とその核心についての知識は、充分に周知していたのです。この
ように天皇の処遇と戦後日本の政治体制は、戦後の日本人の想像を遥かに超え
た所で既に決まっていました。

 その意味において「国体」は護持されたのではなく、アメリカに利用された
にすぎなかったのであり、これまで真実はかくも隠されてきたのです。

 もし貴方が戦後の「象徴天皇制」には、今では大して意味はないと考えてい
るのなら、是非この本を読んで今後のためにも真剣に考え抜いて欲しいと私は
考えています。

 明仁天皇の誕生日の十二月二十三日午前零事にA級戦犯の絞首刑は執行さ
れ、米国は当時の明仁皇太子にメッセージを発していたのです。「政治とは関
わりを避け、平和のシンボルとして行動せよ、さもないと……」と。

 私はこのように考えています。まさに米軍と象徴天皇制と憲法第9条は一体
の物、つまり三点セットなのです。