[1886]天武天皇の正統性について
柿本人麿の悲劇(その7)
奈良朝の人々は『日本書紀』のインチキ性を十分認識していた。『日本書紀』が全力で主張する「天武の決起の正統性」を「乱」と呼び正統性を否定していた。正史を信用も尊敬もしていなかったのである。当然、天皇の万世一系神話も信じてはいなかった。
そんな中、天皇の現人神(あらひとがみ)信仰を力強く歌い上げていたのが後に歌聖と崇められるようになった柿本人麿であった。現人神信仰の成立に果たした人麿の功績は限りなく大きいのである。人麿の正体を解明することは、天皇信仰を考えるうえで不可欠の要素である。
前回まで「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首」と「或る本の歌一首」の三首の長歌と反歌(207~216)を検討した。
題詞には「妻死(みまか)りし後」と書かれているが、人麻呂の妻は、単に死んだのではなく、追い詰められ、死に装束に身を正し、覚悟の失踪を遂げたことを明らかにした。
今回は、その直後に配置されている「吉備津の采女が死(みまか)りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首並びに短歌(217~219)」を検討します。
秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか
たく縄の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕(ゆうべ)は 消ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すと言へ
梓弓(あづさゆみ) 音聞くわれも おぼに見し 事悔しきを 敷たへの 手枕(たまくら)まきて 剣刀(つるぎたち) 身に副へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ
時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと
《訳》
秋山の赤く色づくように美しい妹、なよ竹のようにやわらかくしなやかな妹は 何と思ってるのか、長い命であるものを、
露ならば、朝に置いて夕方には消え失せると言うが、霧ならば夕べに立ち朝には消えると言うけれど、
(梓弓)噂を聞いている私も、ちらりと見ただけだったことが後悔されるのに、
(敷たへの)手枕を巻き交わし体を添えて寝ていただろう夫は、寂しく思って寝ているだろうか。悔しく思って恋い慕っていることであろうか。
まだ死ぬべき時でないのに死んでしまった吉備津の采女よ!
朝露のように、
夕霧のように!
私の好きな詩の一つです。亡くなった吉備津の采女の夫に対するしみじみとした共感。まるで自分の体験のように。人麿は、突然の吉備津の采女の死は、決して他人ごとではなかった。
人麿は、いまだに妻の死に囚われていた。妻を見殺しにしたことを引きずっていた。妻への鎮魂の旅を続けなければならなかった。この歌も、妻に奉げたレクイエム(鎮魂歌)である。