[1878]難民(なんみん)問題としての世界の古代史。『古代倭王(わおう)の正体』を読んだ。
副島隆彦です。 今日は、2016年3月13日です。
今の世界の中心の問題は、中東、アフガニスタン、北アフリカからヨーロッパ諸国への難民(なんみん、レフュジー refugees )問題だ。 難民と言う、移動する民衆の問題が世界の中心だ。
このことは、北アメリカの メキシコ国境から、アメリカ合衆国へ流入してくる移民、季節労働者、経済難民(けいざいなんみん。エコノミック・マイグラント economic migrants)、出稼ぎ労働者 の問題と同じだ。 共和党のドナルド・トランプ候補は、演説の中で、「メキシコ国境に高い塀(ビッグ・ウォール)を作る費用を出すのは誰ですか」 「そうです。メキシコ政府です」 という大唱和(だいしょうわ)を聴衆、支持者たちとやっている。
トランプの運動は、今や、荒れ狂うアメリカ民衆の運動だ。大不況の中でのたうち回るアメリカの下層、中層の白人たちが激しく怒っている。まさしくポピュリズム(民衆反乱)の吹き上げる熱気となっている。このことにアメリカの権力者や支配層が、血相を変え始めた。トランプを上から押さえ込みに入った。トランプは、まだ、取り引きに応じていない。ここで折れたら自分の名折れだ。
私は、日本の右翼あるいは保守的な人々が、「日本にも、中国や朝鮮半島で動乱が起きて、難民が何十万人も押し寄せて来なければいいが」と、心配している事実を重視する。
沖縄をこれ以上、安倍政権と右翼的な人々 が、差別して虐(いじ)めると、沖縄で独立論が起きる。と ヒドく心配した、安倍政権は、態度を変えて懐柔策(かいじゅうさく)に出たようだ。佐藤優(さとうまさる)氏が、鋭く、このことを 毎日新聞に書いたそうだ。 今の沖縄県の翁長(おなが)知事の 副知事が、自民党(東京政府)との連絡係だ。両者は深く話し込んでいる。
辺野古崎への米海兵隊のヘリポート用の滑走路付きの移転計画を日本政府が、「アメリカとの約束だ」としてこれ以上、強行すると沖縄に異変が起きると、察知したようである。
沖縄を見下して、「あいつらは態度が大きい。、それでも独立論と称して、中国に取られたらかなわない。このまま、緩衝地帯(かんしょうちたい、バッファー)でいてもらわないと日本が困る」
「この点では、韓国、北朝鮮が、日本にとっての中国との、緩衝地帯として今のまま残ってくれた方がいい」と、 恐ろしいまでの現実主義(リアリズム)で考える。この 日本の為政者 や、支配層の人々の考えを、私たち普通の日本人も、真剣に考えたほうがいい。
それで、私は、来週から発売の、『日本が中国の属国にさせられる日』(ベストセラーズ刊)を書いた。 帯に、「 共産主義の何が悪(あく)であり、どこをどのように間違ったのか」 と書いた。共産主義に反対し、その撲滅(ぼくめつ)のために命がけになる 日本の反共(はんきょう)右翼たちに対する、私からの語りかけだ。
それらは、現代の難民問題につながるのである。北朝鮮からの核兵器の脅威というものも同類だ。
民族(ネイションズ、あるいは、人種。レイス)の移動 の 時代に、世界が入った。動乱の時代の始まりだろう。 それに対して、島国=島嶼(とうしょ)国の 我々、日本人は、世界から吹いてくる大きな嵐を避けようとして、いよいよこの島国に立て籠もろうとしている。そのために、結婚しない、子供も作らない、人口を増やさない、独身者のまま生きる、という目に見えない悲しい運動を、国民運動として、やっている。
人間が、我儘(わがまま)になり尽くして、もう、親、兄弟、親戚 友人とさえ、話が合わない、という人が増えて、ひとり暮らしのまま生きて、そして死んでゆく、というライフ・スタイルになりつつある。私も、海を見下ろす崖の上の家にひとりいて、太陽信仰で朝日を拝みながら(出たばかりの初めの5分間の太陽は、黄色と赤色で美しい。そのあとはただの太陽、お日様だ)生きている。
そして、誰かが、私が死んでいるのを見つけてくれて、それを片付けてくれる人が、たった一人だけいてくれればそれでいい。医師の死亡診断書に間に合わなければ(医師の目の前に死なないといけない)、死体検視書かを作ってもらって、焼き場に持って行って焼いて、死亡届を出してくれる家族がいてくれればいい。 血縁者たちに看取られながら死ぬ、という生き方を、おそらく今の多くの日本人は、それから欧米先進国の人間たちは、もう望まなくなっている。どんな人にとっても死は静かにたった一人でやってくるものなのだ。
私は、この3日間、一冊の本を、ずっと読み続けた。 それは大きくはこの難民問題に関わるからだ。
『古代倭王(こだいわおう)の正体』(祥伝社新書、2016年2月刊)という本で、著者は、小林恵(やす)子 氏だ。 小林氏は、1936年生まれで、岡山大学の東洋史を出た女性で、現在、 80歳になるおばあちゃんだ。
この「古代倭王の正体」 という古代史の本をずっと、私は没頭して読んでいた。小さくメモを取りながら、地図帳(日本と世界の両方)と 歴史年表(日本史と世界史の両方)で事実と年号と場所 を いちいち確認しながら読んだ。
古代の倭王(わおう)というのは、倭国(わこく。西暦668年に、「日本」 と自分で名乗る前のこの国のこと。天智(てんち)天皇の時の近江令=おうみりょう=で出現した )の王たちのことだ。倭の国王(こくおう)たちの歴代の歴史のことだ。
私の本で説明した「天皇(てんこう)とは、北極星(ほっきょくせい)のことである」という説を書いてきた斎川眞(さいかわまこと)氏と私の共著は、今年中に出したい。
私は、この小林本が、一番、おしまいの方で書いている、日本(倭)に、西暦600年に、タクラマカン砂漠の方から、渡って来た、西突厥(にしとっけつ)の達頭(タルドウ)可汗(カガン。ハーン)が聖徳太子(しょうとくたいし)である、というあまりの 大きな話に、卒倒しそうになった。
私、副島隆彦は、「聖徳太子 は 蘇我入鹿(そがのいるか)である」の 関裕二(せきゆうじ)説に、それが登場した32年前(1984年)から注目した。そして、同時に、岡田秀英弘(おかだひでひろ)東京外語大学名誉教授(存命)の 「華僑(かきょう、オーヴァーシーズ・チャイニーズ)たちが、古代日本を作った」説を信じて、自分の日本古代史の本も書いてきた。
今では、欽明(きんめい、第29代天皇。在位539-571年)は、蘇我稲目(そがのいなめ)その人であり、次の敏達(びだつ、第30代 )と、用明(ようめい、第31代)天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)であろう、ということは、日本史学者たちが、呻き(うめ)声を上げながらでも認めなければ済まなくなっている 日本史(古代史)学界の 事実である。
「 えーい。もうどうなってもいい。史実などどうでもいい。厩戸王(うまやどのおう)がいたということにする。この厩戸皇子(うまやどのみこ)を、 聖徳(しょうとく)ということにしてしまえ。そうしないと、 『聖徳太子はいなかった』論争で、乱れに乱れた日本古代史は、大変なことになる 」 と、この10年で、苦し紛れに、歴史の大改竄(かいざん)をやっている。居直り尽くした日本文部科学省と、盲目的な天皇崇拝の体制護持派 が、困ってしまった。「聖徳太子はいなかった」の騒動を、無理やりでも鎮圧したのだ。
私、副島隆彦は、この事態に追撃の手を緩めない。 私の『闇に葬られた歴史』(2013年11月刊、PHP 研究所 )を読んでください。 聖徳太子はいなかった論を、私たち、学問道場の13年前の議論からさえ「も」泥棒して一大議論を作った、大山誠一(おおやませいいち)一派が、卑屈なる日本史学者の伝統で、吉川弘文堂(よしかわこうぶんどう)という、権威的な日本史出版社からの、脅しも有って、「聖徳太子はいなかった、では、日本の国の国体(こくたい、こっかたいせい)が、揺らぐから、もうこの辺で、議論をやめて、厩戸王という( バカな、何の存在根拠もない)人がいた、ということで、収めましょう」 ということになったのだ。
私、副島隆彦は、それらのおかしな取り決めを一切、認めない。これからも、お前たちの 学問犯罪の所業を、追撃し続ける。
蘇我氏が、西暦530年ぐらいから640年ぐらいまで、大王(だいおう、オオキミ)を名乗り、山門(やまと)や、御門(みかど、ミカド)と呼ばれる建物(邸宅、朝廷 そのもの)に住んでいた。近くに甘樫(あまかし)の丘というお城( 武器庫、と今は言われる)が今の奈良県明日香村あった。蘇我氏の一族の大きな住居 でかつ迎賓館が、斑鳩(いかるが)寺=法隆寺 である。
飛鳥寺(あすかでら)という古い、40年前ははぼろぼろだった寺の敷地の隅(すみ)に、入鹿大王(いるかだいおう)=聖徳 の 首塚(くびづか)がある。これは本物だ。重要人物殺された、その地にある首塚は簡単には移せない。怨霊(おんりょう)がそこに有るからだ。
私は、自分が、17歳のとき(高校2年、このあと高校を中退、放校とも言うの1970年に、この当時まだボロボロだった飛鳥寺を見に行った。和辻哲郎(わつじてつろう)の 「大和古寺巡礼」という本を持って。 飛鳥寺の鬱蒼(うっそう)とした、古い仏像を見て「これには妖気が漂っている」と感じた。
今度、私は、小林恵(やす)子という、80歳のおばあちゃん学者の「もう白内障で目が見えないから、本を読めない」と「あとがき」のある本、『 古代倭王の正体 海を越えて来た覇者たちの興亡 』 「卑弥呼、神武、ヤマトタケル、応神、雄略、聖徳太子、日本列島生まれは一人もいない ! 」「邪馬台国の所在地、天皇家のルーツが見える。紀元前から6世紀まで、ユーラシアを貫く壮大な古代史」 ・・・・
この本の気宇壮大(きうそうだい)、荒唐無稽(こうとうむけい) は、私、副島隆彦でも簡単には付いてゆけない。 高句麗(こうくり)王、 と 新羅(しらぎ。辰韓=しんかん=)王 と 百済(くだら)王 と そして、倭王(初期天皇)たちが、入れ替わったり、同一人物だったり、一時、日本にいて、それからまた高句麗や百済に戻って王になった、と。
日本(福井県、若狭あるいは、丹波=多婆邦(タバナ)王国 生まれの 脱解(だつかい)(紀元前19年生)が、弁韓(べんかん)=金官加羅(きんかんから)国=伽耶(かや)国=日本名は任那(みまな)で、受け入れられず、弁韓=新羅 で育ち、月城=現在の慶州(けいしゅう、キョンジュ)で、新羅王になる(P60)。
・・・・・この脱解(だつかい)が、高句麗王(こうくりおう)大武人(だいぶじん)になり、日本(倭、まだ 奴国=なこく= )にやってきて、神武(じんむ)天皇のモデルになった。スサノオノミコト の モデルでもある(P69)。
「魏志倭人伝(本当は、東夷伝倭人)」の中の、卑弥呼の死(西暦248年。これには異論がない )のあと、皆に支持されなかった男王 がいて、この男が、神武であり、この神武東遷(じんむ・とうせん、東の方への征服の移動 )は、248年で 北九州の博多湾の邪馬台国でまさしく卑弥呼が死んだ年だ、と。
小林恵子説は、卑弥呼は、中国の江南(今の、上海あたり)の地の巫術(ふじゅつ)師の 「許(きょ)」氏の出で、三国志が始まる 後漢(ごかん)末の大混乱の時、西暦172年に、中国の南から、日本列島に渡り、奄美大島に着いた、とする。 確かに、あそこの島々には、巫女(ふじょ、みこ)の伝統が残っている。
このあと博多湾の隣の糸島の湾にあった 伊都(イト)国に住み、平原(ひらはら)古墳に242年に埋葬された。この古墳から、日本最大の変形内行花文八葉鏡(へんけい・ないこう・かもんはちよう・きょう)が見つかっている(P85)。 同じものが、伊勢(いせ)神宮の伊勢の瑞龍寺山頂(ずいりゅうじ・さんちょう)古墳からも出ている(P87)、そうだ。
私、副島隆彦は、これまで、出雲(いずも) と 邪馬台国(私の考えでは、博多湾)と伊勢(いせ)の3者の関係が分からなかった。誰も教えてくれない。はっきりと書かない。なぜ 日本の天皇家にとって、出雲( 出雲大社、大物主=おおものぬし=)と 伊勢(天照大神 アマテラスオオミカミ )が、大事であるのに、それなのにどこか煙たがっている。そして出雲と伊勢は、両者は本当は、どういう関係なのか、誰も分かり易く書かない。 この小林本がそれとなく、それらの関係を書いてくれた。有り難いことだ。
P82 から書いている、江南の会稽(かいけい、今の杭州)にいた巫術者(ふじゅつしゃ)の許昌(きょしょう)が、西暦172年に、反乱を起こした。後漢帝国が乱れていた。このときに、同族の卑弥呼の一行が日本に難民となってだろう、逃れてきたのだ、と小林説はする。
私、副島隆彦の説では、西暦184年の、太平道(たいへいどう)の教えを説いて張角(ちょうかく)を指導者とする「黄巾(こうきん)の乱」を起こした人々は、「人類の現世の苦難からの救済(きゅうさい、サルベイション)」を求めた、キリスト教が、中国にまで伝わった人々だ。救済を求める人々の熱気の中から、世界の4大宗教は興った(ただしユダヤ教は救済宗教ではない)。
日本にまで伝わった仏教は、救済宗教としてのキリスト教と同じものだ。仏教はキリスト教の変形だ。同じく、中国の 太平道(黄巾の乱)と、同時期の五斗米道(ごとべいどう、張魯=ちょうろ=が指導者)が、中国の道教(どうきょう、タオイズム)の源流となったのだ。この指導者の張角や張魯 は、軍人(暴力団)ではなく、道士=導師であり、キリスト教の宣教師である。
そして、日本にまで渡って来た道教が、日本で、神道(しんとう、シントウイズム)に変形したのだ。それらにも、占(うらな)い、呪(まじな)い、祈祷(きとう)による病気治療、悪霊退散(精神病からの快癒)を求める、救済の思想がある。 私、副島隆彦は、ここまでずっと、何冊もの本でこのように書いてきた。
岡田英弘(おかだひでひろ)先生が、はっきりと30年前に書いていた。卑弥呼(ヒメミコだ)について、「魏志倭人伝」で書いている、「鬼道(きどう、鬼の道)に仕え 民を惑わし・・・」の「鬼道」とは、妖術などのことではなく、当時の中国の五斗米道(ごとべいどう)である、と。これで小林説とほぼ一致する。
そして それを 副島隆彦がさらに拡張して、これらの大きな宗教の発生による、キリスト教の爆発的な世界への広がりは、「 私たち哀れな人間を救けてくれ、援けてくれー」という 血の叫びなのである。
このあと、西暦220年に後漢が滅んで、その中から、例の 「三国志」の 曹操(そうそう、その子 曹丕 =そうひ=、 魏 を建てる)、劉備玄徳(りゅうびげんとく。蜀を健てる)・諸葛孔明(しょかつこうめい) と、孫堅(そんけん、その子孫権。呉の国)の 三国の戦いとなる。260年代まで。
この時の大混乱で、またしても日本にまで、逃げて来た難民が大勢いたはずなのだ。 筏(いかだ)のようなものを組んで、数万人が、流れ着いてきただろう。800キロぐらいの海を渡って来なければいけない。卑弥呼たちの様な、呉の国 (今の上海あたり)から( ここから、呉服=ごふく=が生まれる。呉音という読み方が日本に伝わって保存される。これ以外は、漢音=かんおん=だ ) だけでなく、遠く、揚子江(ようすこう。今の中国人は、長江=ちょうこう=としか言わない) をずっと下って来た、蜀(しょく、四川省)が滅んで、人々もいただろう。
日本は、大陸の東の 吹き溜まりだから、大陸で政治的な大混乱があると、必ず、難民となって、民族や、人種の生き残りが、日本にまで、流れ着いてくる。朝鮮半島からも来る。
今の、ヨーロッパへの 中東からの難民の様子は、民族の移動でもある。ホメロスの大叙事詩「オデユッセウス」や「イリアード」も、当時のエーゲ海に小アジア(今のトルコ)からの、動乱があって移動してきた民衆のたどった道とまったく同じだそうだ。
ヨーロッパからの、「お願いだから、こっちにこれ以上、来ないでくれ。迷惑だ」という表明が、ニューズで毎日、報道されている。 東アジアでも、きっと2000年前から繰り広げられた光景だ。難民たちの、あの、襤褸切(ぼろき)れや、毛布を頭と体に被(かぶ)って、子供の手を引いて、移動してゆく感じは、人類がずっと繰り返しやってきたことだ。 だから、これからも繰り返す。
小林本は、P118で次のように書いている。
「 私の推測では、高句麗の王 雛(すう)が滅ぼされて、大物主(おおものぬし)の勢力の残党が、「倭国 の 大乱」時代、瀬戸内海から近畿にかけて戦闘しながら大和に入った乱の中心だったと思う。そして長脛彦(ながすねひこ)勢力は神武勢が大和に入った時、大物主を祀(まつ)る三輪山(みわやま。今の桜井市)の周辺を中心に大和地方に君臨していた。」
私は、日本国の創業者とされる、神武(じんむ)天皇以来の、すべての古代倭王(わおう)が、西暦600年の 聖徳=蘇我入鹿大王 に至るまで、すべて高句麗王や、新羅王、百済王との二重王、であり、行ったり来たりしていたという 小林恵子説のあまりの遠大な古代史の図式に 圧倒された。
日本の天皇には、本姓はないということになってるが、本姓は、「休(きゅう)」である(P41)。 「万葉集」で、 「やすみしし」は、天皇にかかる枕詞であるが、これは、「休氏(きゅうし)スメラギ」で「やすみしし天皇」なのである、そうだ。
大夏(たいか)の休氏が、月氏(げっし)に入って、大月氏(だいげっし)になる。・・・・
壮大な 遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)の興亡が、広大なユーラシア大陸の大草原で繰り広げられる。遊牧民族(nomad ノウマド)こそは、古代の世界史を作った人々だ。 私たち日本人は、ずっと島国にいて、農耕民=定住民(あagrarian アグラリアン)の伝統しか持たない(忘れてしまった)ので、なかなか理解できない。
何百キロも、いや、それこそ 何千キロも移動する、ということは出来るのか?
1.スキタイ( BC 7世紀からの広大な広がりを持つユーラシア大陸の遊牧民族の始まりの種族。馬を飼いならした )→
2.古代シリア →
3.バクトリア(BC250年ごろから) →
4.大月氏(だいげっし、BC150年ごろから )→
5.匈奴(きょうど。フンヌ、フン族。BC50年ごろから。のちに ヨーロッパに広がる。ヨーロッパで、西暦 300年代に、ゲルマン族の民族大移動を引き起こす原因となった )→
6.鮮卑(せんぴ。AD100年代から) →
7.クシャナ帝国(クシャナ朝、北インドから)→
8.エフタル (AD440年から、もとは大月氏の一部の部族だった)→
9.突厥 (とっけつ。西暦600年代から 西突厥と東突厥に分裂 ) →
10.ウイグル(700年代から。トルコ系。契丹=きったん=も。 のちのモンゴル族がこの文化や文字を受け継ぐ ) →
11.遼(りょう。これもトルコ系。900年代から。 )
12.金きん。満州族。1230年代に滅ぶ。 のちに、西暦1600年代から、後金=こうきん=を名乗って、中国に攻め込んで、女真族の大清(シン)帝国 が出来る )
13.モンゴル帝国 (1200年代から、チンギス・ハーンが興す。100年間だけ世界帝国を作った)
これらのことが、小林本の記述を確認しながら、私の中で、大きくつながった。
この本には、たった一枚しか地図は付いてない。P152, 153 だ。 私は、これまで、扶余(ふよ)族、という、大きな遊牧民族のことが分からなかった。 扶余(ふよ)が南下したのである。 松花江(しょうかこう)という満州の中心部を大きく流れる大河がある。
そのど真ん中に、ハルピン(哈爾濱)をロシアが、1900年ごろに、突貫工事で、作った。私は、松花江を3年前に見に行った。満州帝国と満蒙開拓団の悲劇が有った一体だ。
その辺に扶余族はいた。 満州族 である 金(きん)帝国 や、女真の清の帝国を作った者たちは、もっと南の、長春(ちょうしゅん。日本時代は、新京)と、さらに南の瀋陽(しんよう。日本時代は、奉天=ほうてん=)だ。ここでも、冬は零下30度だ。耳覆(みみおお)いがないとすぐに凍傷になる。私はここにも行って体験した。
私は、その扶余族の西となりに、3世紀(西暦200年代)から、同じ遊牧民族の鮮卑(せんぴ)族が勃興して居たことが、どうしても、実感で分からなかった。それから、沃姐(よくそ)族が、特に北沃姐族が、今のウラジオストクのあたりにいたことが、ようやく分かった。 韃靼(だったん、タタール)人は、小林本には、一言も出てこない。
それから、邑婁(ゆうそう)族という種族が、もっと北の、ペイロンチー(黒竜江)河や、ウスリー河のあたりにいたこと。それから、新羅(=辰韓)の北にいた、 穢(サンズイ、わい)と狛(はく)という部族国家のことがずっと気になっていた。 靺鞨人(まっかつじん)というのもいた。
今の韓国人は、「自分たちの祖先は、北の方から移動してきた、モンゴルのような遊牧民族だ。とくに新羅はそうだ」と言う。 それは、これらの扶余族の南下のことだろう。ところが、そのほかに、トルコ(チュルク)人である、大月氏系 もいた。
大月氏の地(中央アジアの、今のタシケントやサマルカンドのあたり)は、日本から5000キロの先である。
遠く、中央アジアの 大月氏(だいげっし)の部族が、日本にまで、やってきていた。しかも、日本で大王(オオキミ、天皇)にまでなっていたこと。それらの、興亡の激しさに、私でも小林本の記述のすべてには、とてもつても付いてゆけない。それでも、この気宇壮大になんとか、喰らいついてゆく。
それから、「欠史八代(けっしはちだい)」と日本古代史で言われる、神武天皇から、あとの2代目綏靖(すいぜい)、3代目 安寧(あんねい)、4代目 懿徳(いとく)、5代目 孝昭(こうしょう)、6代目 孝安(こうあん)、7代目 考霊(こうれい)、8代目 孝元8こうげん)、9代目 開化(かいか)天皇 のことと、動きを、逐一、初めてその概略を知った。
そのあとに、10代 崇神(すじん、西暦300年前後。大月氏大夏系の葛城=かつらぎ=氏系の、出雲系・大物主=おおものぬし=の勢力 を打倒して、大和に入って三輪山を根拠地にした。) 、11代 垂仁(すいにん。西暦315年に 纏向=まきむく= 今の、奈良県桜井市 に都を作った) 、12代 景行(けいこう。ヤマトヤケル=大和武尊=のモデル。扶余=ふよ=あるいは鮮卑=せんぴ=族の慕容=ぼよう=氏の一族である。 慕容コウ その人 ) ・・・・ 大月氏 である 古い先住者である出雲の大物主 や葛城(かつらぎ)氏 の 勢力が、 山門(=大和)からも 駆逐されてゆく。・・・
なんともはや、壮大な、ユーラシア大陸をまたがる、さらに中央アジア史の一部としての さらに東アジア史の一部としての 日本 (倭国)に全てがつながっている話だ。
昨年末に、私は、「これで、副島隆彦の日本古代史 は、完成した」 と思って本を書く準備をしていたのに。 「 東アジア史の一部としての、日本の、 西暦200年代(卑弥呼=ヒメミコ=の邪馬台国)、300年代、400年代、500年代、600年代が、これで大きく分かった。これでいい 」 と、すべて描きつくそうと思った。
それは、「次々に、中国の歴代王朝の交替の大混乱 (戦乱)によって、朝鮮半島と 満州あたりだけでなく、 日本にまでも大きな、津波のように、難民となって、次々と、押し寄せてくる人々の群れ 」の話として、私はずっと書こうとしていた。
次々にやってくる難民たちは、筏(いかだ)に、馬、豚や、羊(日本では山羊、ヤギ)や、牛を載せて、北九州から、瀬戸内海を通って、順番に、ぞろぞろと数千人の群れとなって、「東へ、東へ」と移動していった。「あっちの方が空いているから、あっちにいってくれ」と 先住者たちに言われながら。
日本では、、馬、牛を去勢していないから、だから、江上浪夫(えがみなみお)の騎馬民族(きばみんぞく)征服王朝説は成り立たない」と、1990年代に、葬り去った、終生、悪質な学者であった、梅原猛(うめはらたけし)たちの 勢力は、今や、駆逐されつつある。
遊牧民族(騎馬民族というのは、どうかなあ)は、何千頭も、何万頭も、家畜( livestock ライブストック,
生きている 財産、食べ物)を引き連れて、ぞろぞろと どこまでに、草原を移動してゆく。家畜は、殺したら、すぐに食べないと、10時間で腐って行く。 しかし、生きている動物は、腐らない。 生きた羊と、牛と、豚と、馬と、ヤギを連れている限り、そしてその餌(えさ)となる草原の草がある限り、どこまででも移動して行ける。
遊牧民は、家畜さえいれば、生きて行ける。肉とミルク、あとは、家畜の皮から作ったパオ、ゲルの住居と、焚き火用の材木だ。 私は、5年前に、カザフスタンのあと、モンゴルに行った。 モンゴルの首都ウランバトール
から、200キロと地の観光客用の ゲル(中国名はパオ)に 5日いた。 遠くの、30キロぐらい先を、次から、次に、羊や、馬の群れが、水飲み場に来て、それから、はっと気づいたら、もう 20キロぐらい先に、行っている光景を見た。 生きている食糧である家畜を連れていれば、遊牧民はどこまでも移動できる。
考えてみれば、西暦375年に、ヨーロッパ北部で、フン族(匈奴、やがてアッチラ大王が出てくる。ハンガリー人は、今でもアッチラという名前を子供に付ける )が、背後から圧迫したので、ゴート族というゲルマン民族のひとつが、一斉に 数十万人がドナウ川(ダニューブ川)を渡りだした。ローマ帝国の兵士たちがそれを押しとどめることが出来なかった。
この時からが、ゲルマン民族の大移動だ。それから、このゲルマンの遊牧民たちの多くの部族が、100年間ぐらいの間に、ヨーロッパ中を、そして北アフリカ( ヴァンンダル族、バーバリアン)にまで移動していった。 あの感じと同じことが、東アジアでも起きたのだ、いや、きっと起きたはずだ、と 考えなければ、真の世界史の理解にならない。
日本に押し寄せた難民たちは、うまく話が付かないで先住民との戦乱もあったろう。 そうやって、いつ、山門(やまと、大和。今の奈良盆地)にまで、入っていったか。それを、初期天皇たちの動きとして、逐一、私は、叙述しようと思った。
それが、この小林本によって、打ち壊された。この小林本のスケイル(もの差し)の大きさの前に、私の「日本古代史の全体像」は、この3日間で、吹き飛ばされてしまった。
中央アジアの日本から5千キロ先の、大月氏(だいげっし)や突厥(とっけつ)などの遊牧民族が、はるばる日本にまでやってきて、そして、歴代国王にまで、何人も何人も、次々と何人もなっている、話を、これでもか、これでもか、と書かれると、普通の日本人は、頭が割れるか、眩暈(めまい)がするだろう。
「もう、やめてください。私の頭には入りません。そんな、大月氏とか、鮮卑(せんぴ)族、とか、エフタルとか、扶余(ふよ)族とか、日本にやってきて国王になった、なんて、やめてください。匈奴(きょうど)ぐらいなら習って知っているけど。それ以上は、頭に入りません」と なる。
私、副島隆彦は、そういうわけにはゆかない。私は、5年前に、カザフスタンに行った。アルマトウ(ここが、新しい世界銀行の地になるだろう)に行った。首都のアスタナにも行った。ここから天山(てんさん、テンシャン)山脈を南に見て、その向こうのキルギスまでが見えた。
その向こうは、フェルガナ盆地(大宛国、だいえんこく)を一部にしているウズベキスタン(ここが、中央アジア5か国の、本当は中心の国。しかし、政情不安で栄えていない)だ。 ここらに大月氏国 があったのだ。
それから、7年ぐらい前に、私は新疆ウイグル自治区 のウルムチや、敦煌(とんこう)、トルファン盆地、ハミに行った。 コルラ、クチャ(庫車)には行けなかったが、天山山脈そのもののあたりを車で走った。
この小林本の P42に、「中央アジアに残った大月氏は大体シルクロード上のオアシス都市クチャ(かつての亀茲=きじ=国)の東北(にある)金山(きんざん)あたりに住んでいたらしい」 とある。 ここの金山(きんざん)を私、副島隆彦は自分の目では見ていないが、そのあたりの出身者の女性に話を聞いた。
中国人は、北西の遊牧民を、西戎(せいじゅう。西の方の遊牧民で、野蛮人の「えびす」たち。トルコ系。チュルク人。のちのウイグル族や契丹族。それが、モンゴル族にもなった )と呼ぶが、犬戎(けんじゅう)とも呼ぶ。 この大月氏、犬戎が日本の天皇族の「休」氏の一族である(P44)。
私、副島隆彦説では、「満州人(マンジュ)とは、大興安嶺(だいこうあんれい)山脈を越えて来た、モンゴル族である。そして、狩猟もする民族になった」となる。 この点で、岡田英弘先生と、意見が合わなくて、岡田先生が、顔をそむけたので、それで対談本の企画が流れた。もう12ぐらい前のことだ。私のあまりにも荒っぽい(粗っぽい)議論に、岡田先生が、拒否の態度を取られた。岡田先生が、日本の東洋史、モンゴル史、満州史、朝鮮史 総して、アルタイ学(会)( Altaic studies アルタイック・スタディーズ)の 日本における権威である。
岡田先生と奥様 が、同じ東洋史である 小林さんの研究を何と言うか、私は、聞いてみたいが、きっと顔をそむけるだろうと、思う。
小林恵子(やすこ)さんは、中国の正史である各王朝の歴史書、特に『資治通鑑(しじつがん)』も読んでいるが、『高句麗本紀(こうくりほんぎ)』や、『新羅本紀(しらぎほんき)』、『百済本紀』、『海山経』、『三国史記』 なども読んでいる。日本史学者たちは、こういう資料の読み込みをしない。出来ない。
そして、細かく日本の『記紀』( 古事記 と 日本書紀。日本の正史と決めつけられてる)と付き合わあせている。 いい加減な突合せ(照合)はしていない。
そして、P202で「応神 と 広開土王 の死闘」 となっている。応神(おうじん)天皇 (第15代、在位、西暦270―310年。この大王 は実在とされる)が、あの有名な、高句麗の王である「広開土王(こうかいどおう)の碑文(413年、息子の長寿王=ちょうじゅおう=が建てた)」の広開土王のことを 書いている。
・・・・そして、P223で,仁徳天皇は、この広開土王(好太王 、句麗王安、)であり、日本征服に来た、となっている。あーあーあーで、ずっとこの調子だ。 私は、頭が強いから、簡単には割れないから、耐えられる。普通の人には耐えられないだろう。
小林恵子女史は、古代オリエント学会の会員である。この古代オリエント学会(1954年設立)は、三笠宮(みかさのみや、昭和天皇の末弟。存命 )によって運営されてきた。 小林女史が、「あとがき」で書いているが、「三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)殿下に何かと学問上のお世話をいただきました。・・・常識外れの私説に対しても一度も疑義のお言葉をいただいたことはありません」 と、 書いている。
三笠宮は、「2月11日を建国記念日(神武天皇が国造り=国家統一を決めた日とされるとすることに歴史学的な根拠はない)と、紀元節(きげんせつ)の復活にかつて反対した。それで三笠宮は右翼たちから攻撃された。
三笠宮は、中東、オリエント世界 (中央アジア()への遺跡発掘調査にも出かけて、実は、あの映画「インデアナ・ジョーンズ」(主演、ハリソン・フォード)のモデルにもなった人なのだ。
私は、この小林恵子氏の本は、十分の根拠を持っていると判断した。従来の、古代史を、ユダヤの失われた一支族(第13氏族)が、日本にまでやってきて、四国の剣山(つるぎさん)そのほかに、古代国家の痕跡を残している」などと書く、歴史学の知識や精密な研究歴 を持たない、いい加減な思い付きだけの、おかしな人たちが書く本とは、異なる。
ただ、どうやって、あの 5000キロも先の、中央アジアの広大な砂漠や草原地帯を超えて、はるばる、日本まで、どういう動機でやってきて(確かに 移動する遊牧民たちの時代だ )、しかも次々と日本の王にまでなっている、というのは、どういうことなのか。私は、今、この『古代倭王(たち)の正体』を読んで、深く考え込んでいる。
副島隆彦拝