[1875]天武天皇の正統性について
柿本人麿の悲劇(その6)
『日本書紀』は、天武天皇の即位を正統化する為に編纂された史書である。『日本書紀』は、原則的に天皇一人に付き一巻を立てているが唯一天武天皇に対しては巻第二八、巻第二九と2巻を分け、巻第二八全てを「壬申の乱」の記載に当て、天武勝利に貢献した将兵の顕彰に当てている。
『日本書紀』では、非は大友皇子(天智天皇の長子、明治に追号された弘文天皇)にあり、天武は追い詰められてやむを得ず決起したのであり、元来皇位継承の正統者(東宮)は大海人皇子(天武天皇)であったと書いている。
「壬申の乱」は、皇位継承の正統者が正当な権利を行使した戦いであると言うのが『日本書紀』の主張である。
であったなら、どうして「乱」と云うのだ。「乱」と云うのは、世を乱す行為である。下剋上など秩序を破壊する行為だ。正統者が正当な権利を行使した戦を「乱」と呼んではならないはずである、断じて。
しかし我々日本人は、何のためらいもなく天武の決起を「壬申の乱」と呼んで来た。驚くことに奈良時代(天武の王朝)で既に「乱」と呼ぶのが定着していた。(『懐風藻』より)
『日本書紀』は、天武天皇の正統性を主張するが、人々はそれがインチキであることを明確に認識していたのである。日本国の最初の正史『日本書紀』は、信用されていなかったのである。尊敬されていなかったのである。
万世一系の天皇信仰(現人神信仰)は、天武を正統化するために創作された教義(ドグマ)である。天武の命で始まった修史事業の過程で創造されたドグマであった。
柿本人麿は、この修史事業の中心人物である、断じて地方の下級官吏や流罪人などではない。天武朝、持統朝の中枢にいた人物である。
天皇に対する枕詞「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き」
《あれこれと心にかけて考えることを禁ずる。まして口に出して云うなど実に畏れ多い事である》
大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 庵(いほ)らせるかも
《天皇は、神であらせられるのだから、天雲の雷(いかづち)の上にお住まいになっておられるのだ》
何度でも強調するが、人麿こそ現人神(あらひとがみ)信仰の創造者である。
前回まで「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」との題詞を持つ三首の長歌を検討してきた、題詞には「妻死(みまか)りし後」とあるが、三首の歌の後半全てで、人麿が必死の思いで妻を捜し求めていたことが歌われている。死んでしまっていることが確認されていたのなら、どうして妻のお気に入りの場所であった「軽の市」や、難渋して山に踏み入って捜索する必要があるというのだ。
人麿は、妻の死を受け入れることが出来なかったのだ。妻が苦境に堕ちていたことを人麿は十分認識していた。ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさ、とのんきに構えていた。そこに突然妻の失踪が知らされたのである。人麿は、妻を助けずにいた。妻を見殺しにしたのである。
次回は、この次に配置されている「吉備の津の采女(うねめ)の死(みまか)りし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首、並びに短歌」〔217~219〕の題詞を持つ歌を検討する。