[1872]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/03/01 14:08

柿本人麿の悲劇(その5)

 「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首」この題詞は本当の事を述べていない。

  渡る日の 暮れ行くが如 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使の言へば〔207〕より

 《渡る日が暮れて行くように、照る月が雲に隠れるように、寄り添って相寝た吾妻が、(もみち葉の 過ぎて去にきと) 妻の里から使者が云うので》

 私が目にした全ての注釈書は《もみち葉の 過ぎて去(い)にき》を「死んでしまった」と解釈している。
 しかし、妻が死んでしまっているのなら、どうして人麻呂は妻の姿を必死になって捜しているのだろう。〔207〕の歌の前半で、世間の目が恐ろしくて人麿は妻の下へ通うことが出来なくなっていたと歌っている。〔210〕の歌によれば、二人の間にはすでに子供も誕生していたのにである。
 何か得体のしれない異常な事件に人麿の妻は巻き込まれていた。それに対し人麿は無事であったらしい。ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさ、とのんきに構えていたところに、突然妻の里から使者が来て「妻がいなくなった」と告げられたのだ。
 人麿の妻は世間の目を恐れなければならない窮地に堕ちていた。人麿の妻にとって世間は敵となっていたのです。それなのに〔210〕〔213〕の歌の《世の中を 背きし得ねば》を「死ぬと云う事は世の摂理、人はそれを免れないから」と、全ての注釈本は解釈している。こんなバカな解釈はあり得ない、こんな解釈をして学者たちは恥ずかしくないのだろうか。世間は世間で良いのだ。
 妻は、村八分と云うか、世間の刺すような厳しい視線の中に置かれていたのだ。実家でひっそりと暮らすのも許されない苦境にあった。世の中全てが敵に思えた。
 人麿は、甘く考えていたのだ、妻の苦しみを。ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさ、などと。

  大鳥の羽易の山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと 人のいへば 岩根さくみて なづみ来し 好けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば〔213〕より

 《汝が恋ふる 妹はいますと 人のいへば 》

 これは、あなたの奥さんを見かけた、と云う事だ。人麿は、いまだに妻の死を受け入れることが出来ずにいたのである。

  家に来て わが家を見れば 玉床の 外(ほか)に向きけり 妹が木枕(こまくら)〔216〕

 これまでの通説は、題詞に呪縛され「妻は死んでしまっている」と決め付けて解釈したものである。しかし歌の内容と、題詞は矛盾している。この人麿の妻の死に関しては、題詞は真実を告げていない。擬装し、人麿の正体を韜晦している。