[1861]天武天皇の正統性について
柿本人麿の悲劇(その2)
「壬申の乱」は、倭国(筑紫王朝)の大皇弟(天武天皇)による近畿大和王朝(日本国)の乗っ取り(簒奪)事件であった。一ヶ月にも及ぶ日本史上最大級の内戦です。『日本書紀』が記すように天智天皇と天武天皇が同母の兄弟(両親が同じということ)であったら、単なる王朝内の相続争いに過ぎないのです。そんな争いのどこに日本を二分するエネルギーが秘められていた、と云うのでしょう。
天武の命で開始された歴史編纂事業は、近畿大和王朝を簒奪した天武を正統化する作業でした。簒奪者の正統性を創造したのです。この事業の中心にいたのが柿本朝臣人麿でした。天智系勢力の強い敵意の中で進められた作業でした。人麿は、注意深く警戒する必要があった。自身だけでなく一族の安全も図る必要があったのです。正体を擬装し、韜晦(とうかい)したのです。
前回は『万葉集』第二巻〔207〕の歌を検討しました。今回は〔210〕の長歌を検討します。
柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌二首
うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白妙(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子(わぎもこ)が 形見に置ける みどり児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物しなければ 男じもの 腋はさみ持ち 吾妹子と 二人わが寝し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 昼はも うら寂び暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋ふる 妹は居ますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば
「私の訳」
妻が生きていた時に、手に手を取り合って二人で見た、家の近くにあった堤に立っていた槻の木の、春になると枝いっぱいに芽が吹きだすように心の底から愛していた妻であったのに、心から信頼していた妻であったのに、世の中を欺くことは出来ないと、かぎろひの盛んに立っている荒野に、真っ白な死に装束を身にまとい、鳥のように朝巣から飛び立ち、入日の如く隠れてしまったので、残されたみどり児がお腹を空かして泣いても、男である私はどうして良いか分からない、ただ抱っこしてオロオロするばかり。
妻と二人で寝た嬬屋の中で、昼は寂しく悲しく過ごし、夜はため息をつき嘆いているがどうして良いやら分からない。
大鳥の羽易(はがひ)の山であなたの奥さんを見かけた、と人が云うので、ゴロゴロとした岩を踏み分け、難渋して捜しに行ったが、良い事なんか何にもなかった。生きていると信じている妻に結局逢うことが出来なかったのだもの。
私が目にした注釈本の全ては、「世の中を 背きし得ねば」を「死ぬと云う事は世の摂理、人はそれに背くことが出来ないから」と解釈している。題詞に引きずられて、人麿の妻は死んでしまっていると決め付けているのです。しかし、「世の中」原文は「世間」と書かれています。単なる「世間」に「死ぬと云う事は世の摂理」など云う重い意味を背負わせていいのでしょうか。ここ以外にこのように訳している文献にお目にかかることは出来ないのです。
〔207〕の歌で、人麿は世間の目が恐ろしくて妻の下に通うことが出来ない状況が生じていた、と歌っています。ほとぼりが冷めたらまた逢えるようになるさ、とのんきに構えていた中に、突然妻の里からの使者が来て「黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にき」と告げられたのです。妻は、異様な事件に巻き込まれていた。人麿は世間の目を恐れて自分の妻であるのに逢いに行けなかった。人麻呂の妻は、里でひっそりと暮らすことも許されない世間の厳しい視線に曝されていたのではなかったのか。
人麿は、妻の死を簡単に受け入れることが出来ずにいた。誰かが妻に似た女性を見かけた、と云うのを聞いては、岩根をさぐくみ 難儀して捜しまわったがついに発見することが出来ずに終わったのです。