[1858]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/02/08 20:32

 柿本人麿の悲劇(1844の続きです)

 人麿が下級官吏で石見国の鴨山で亡くなった、と云う伝説は『万葉集』第二巻223の「柿本朝臣人麿、石見国に在りて死に臨む時、自ら傷(いた)みて作る歌」から227の「或る本の歌に曰く」までの五首の歌と題詞から作られている。 
しかし、「かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)きかも」(心に思う事も、畏れ多く忌むべきである。言葉に出して云う事は、実に畏れ多いことだ。)この天皇に対する枕詞も、「大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)の上に いほらせるかも」と、大君(天皇)を「神にしませば」(神であるから)と、天皇信仰の中核をなす表現を最初に用いたのは柿本人麿である。人麿以前は、誰も表現していないのである。

 「壬申の乱」は、倭国(筑紫王朝)の大皇弟(天武天皇)による近畿大和王朝(日本国)乗っ取り事件であった。正義の無い事件であった。故に天武天皇は、正統性を欲したのであった。天武の命で開始された修史事業は、天武天皇の正統性を創造する事業であったのです。天武天皇を正統化する事が、最重要課題であった。
 人麿は、誰よりも先駆けて「天皇を神化」する表現を発表している。人麿こそ、天武天皇の正統性の創造者です。この王朝の最重要課題・修史事業の中心人物でした。
 その人麿が、地方の下級官吏であったはずがない。石見国の鴨山で死んだなど云う事は、擬装である。人麿と『万葉集』編者が施した擬装だ。

 〔1844〕で『万葉集』の編者は、柿本人麿の「生と死」を、(207)「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし時、泣血哀慟して作る歌二首併せて短歌」から〔227〕の「或る本の歌」までを、一つのシリーズとして読むことを示唆していると私には見えた。故に〔207〕の歌から検討する。

   柿本朝臣人麿、妻死りし時、泣血哀慟して作る歌

 天飛ぶや 軽の路は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころ 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかづら) 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の 籠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ行くが如(ごと) 照月の 雲隠(がく)る如 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言うはむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉襷(たまたすき) 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖を振りつる

 「私の訳」(目にしたすべての注釈書とは大きく異なっている。それは「壬申の乱」、天武天皇に対する歴史認識の違いによる。)

 天飛ぶや軽の路は、私の妻の里であるから、行ってじっくり見ていたいのだけれど、しょっちゅ行けば人目が多く、数多く行ったら人が知ってしまうだろう。
 狭根葛の蔓が分かれてもまた絡み合うように後でまた逢えるだろうと、私の心はずっと変わらず妻を愛し続けているのだから、大船に乗っているように鷹揚に構えていた。
 突然、渡る日の暮れ行くが如、照月の雲隠る如、靡き寄った妻は秋の山に入って行って行方知れずになった、と妻の里からの使者は告げた。(すべての注釈書は、使者の伝言「黄葉の 過ぎて去にき」をただ単に「妻が死んだ」と解釈している。
 私は、人麿の妻は、覚悟の出奔を遂げたと解釈する。何故なら、妻は何か得体のしれない窮状の中に突き落とされていたのだ。夫である人麿が、世間の目が怖くて逢いに行くことが出来なかった。人麻呂の妻は、困窮の中で孤立していた。人麿は、ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさ、と鷹揚に構えていたのだ。)
 人麿は、使者の伝言を聞き、なんと言ってよいのか、どうしてよいのかまるで分らず、じっとしている事も出来ず。もしかしたらと微かな期待を抱き、妻がしょっちゅう行っていたお気に入りの軽の市に行き妻を捜した。
 しかし、妻の声は聴くことが出来ず、一人として妻に似た人も通らない。むなしく妻の名を呼び、袖を振るだけであった。

 すべての注釈書は、題詞「妻死(みまか)りし後」に引きずられ「黄葉の 過ぎて去にき」を、ただ単に「妻は死んだ」と解釈しているが、それならどうして人麿は、妻のお気に入りの場所・軽の市に行き妻を捜しているのだ。人麿は、まだ妻の死を受け入れていないのである。
 このことは、次の長歌(210)を読むとよりはっきりする。続く。