[1849]一柳洋会員の地元での果敢な活動を顕彰する

清野 眞一 投稿日:2016/01/12 13:23

2015年12月5日、「横須賀市軍港政治史研究会」笠原氏の講演会を聞いて思う事

 今年は、横須賀を軍港にするために江戸幕府が鍬入れをしてから150年になる節目の年です。そして横須賀軍港の建設から3年後、薩長等によるクーデターで幕府は瓦解しましたが、その裏にはアヘン戦争で得た教訓から自らが闘うのではなく現地人の間の内紛を拡大して内乱を起こさせ、自分のために利用しようと考えた英国がいたのです。英国の武器商人は幕府と薩長に武器を売り込み、武力討幕を実行させます。公武合体派の坂本龍馬は初期にこそ利用されていたものの、最終的には英国策の邪魔者として排除されました。

 薩摩の五代友厚ら英国留学組や伊藤博文らの長州ファイブが英国の掌中で動いていた事は間違いのない所でしょう。五代や伊藤博文や井上馨らは実に英国に育てられた人物で、西郷隆盛は井上馨を(英国と繫がる)三井(財閥)の番頭さんと呼んだ程です。元幕臣の渋沢栄一も銀行制度について英国から学んでいます。また元幕府陸軍騎兵頭で井上馨の子分・三井物産初代社長の益田孝らの抜擢も忘れてはなりません。単純な薩長史観は間違っています。つまり英国と深く関わった幕臣は、明治維新後もしっかりと活躍している事は見落とすべきではないでしょう。勝海舟も忘れてはならない、その内の一人です。

 当時の日本は、現在の日米同盟のように日英同盟の国、つまりは英国の属国でした。そして日露戦争とは英国の後ろ盾を得た上での対露代理戦争だったのです。その証拠として日本艦隊の旗艦・三笠やその他の主力艦は全て英国製であり、かつ優遇措置された上で日本に引き渡されたものでありました。そして遠距離航行のバルチック艦隊は、行く先々で石炭等の補給妨害にあい、又情報提供など数々の英国の日本支援工作がなされていた事は今では知られています。そして三笠の艦上にもアルゼンチンの観戦武官もいたのです。

 この日本海軍が大正・昭和と経る事で、いかにして日英同盟を破棄し英国と距離を置きつつ米戦争に踏み切る事になったのか。この点の子細な解明が今に生きる私たちが今認識すべき大きな教訓であり、大切にしなければならない問題意識ではないでしょうか。

 しかしこのような日本史的にも大事な歴史的な年であるにもかかわらず、現地・横須賀市にある数多の郷土史研究団体は、そのほとんどが歴史的な祝賀ムード一本槍で、こういった問題意識からこの問題に迫った研究発表や講演を行っているグループは、残念な事にほとんどありません。

 その唯一の例外が、今ここに紹介する「横須賀市軍港政治史研究会」の講演会です。代表者は、一柳洋氏で横須賀市浦郷生まれ、環境問題などで全市型選挙を展開した市民派として、昨年まで6期市議会議員を務めていました(2期目途中まで社会党)。横須賀市議会は、場所柄か社民党や共産党の議員は勿論の事、市民派議員はたいへん少ないです。

 ところでこの問題意識は、副島隆彦氏の歴史観とかなり共通するものがあります。それもその筈で、主催者の一柳洋氏は今年の6月に「軍港開設150年記念 副島隆彦さん講演会 横須賀軍港開設と敗戦までの裏面史」を実施しました。つまり彼は副島氏と連絡を取り合う「副島隆彦の『学問道場』」の会員なのです。現在、この講演会の要旨は会員ページにて全三回分の第一回目が公開中です。この文章もこれに刺激されたものです。

 当日の講演会は50人に欠ける人数でしたが、「帝国海軍の真実 中国とアメリカ相手に何をしたか 横須賀は何を担ったか」という演題で行われました。講演者は『南京事件論争史』の著者である都留文科大学教授の笠原十九司氏です。講演中の発言の中で、教授は今迄は学生からよく「先生は政治的に偏向している」と指摘されていましたが、9月の安保法制の可決後は学生もそういう事を言わなくなったと学生ながらに現在の政治状況を把握しているのでは、との感想が明らかにされました。

 この講演の内容は、今巷間よく聞く所の海軍善玉論とは米内光政や野村吉三郎たちが天皇制と海軍を残すため、陸軍に全ての戦争責任を押しつけ、天皇と海軍の免責を画策した事だとし、また海軍が犯した事が言い逃れできず否定できない事件については全て現地の指揮官がやった事だとし、米内や野村らの海軍エリートに傷が付かないように策動した事を暴露したものでした。また貴重で興味深い横須賀航空隊の映像も紹介されました。

 この講演の内容その物は、今年の6月に平凡社から刊行された同氏の『海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』の簡単な要約でした。私も出版されていた事は全く知らなかったので、会場にて直ちに購入いたしました。この本は、笠原氏も講演中に発言したように海軍の戦争責任を明らかにした、今の所唯一ともいってよい本です。

 この本の帯には、「日中戦争を対米英戦の実践演習ととらえ、南進と大規模な空爆を決行、さらなる泥沼化を進めたのは海軍だった。国の命運より組織的利益を優先させ、ついにはアジア太平洋戦争へ。東京裁判でつくり上げられた『海軍免責論』『海軍神話』に真っ向から挑む力作」とあります。実際に約480頁の大著です。

 確かに当時昭和天皇も支持していた日本政府の日中戦争不拡大方針を反故にして戦争が拡大していったのは、1937年に起こった大山事件によるものですが、この事件自体が上海特別陸戦隊第一中隊長で26歳独身の大山勇夫中尉を「国のために死んでくれ。家族の面倒は見るから」と説得した上で鉄砲玉に使った海軍の一大謀略事件でした。この事実の暴露は、本書の白眉であるに間違いありません。その裏には米内光政がいたのですが、公演後にこの著作を読んでみると笠原氏はその謀略の経緯については詳細に書いているものの、米内の果たした役割については記述がないのがたいへん残念な事でした。

 笠原氏の講演は全体的には良いものでしたが、この講演前に既に私は船井幸雄氏と副島隆彦氏の対話本『昭和史からの警告 戦争への道を阻め』(ビジネス社2006年刊行)を読んでいまして、特に第3章「日米開戦を仕組んだのは米内光政だ」の中の小見出し「○内側から鍵を開ける者たちは常にいる○断罪されるべき人物こそ生き残る」の約40頁に注目しており、目を開かれた印象を抱いていました。そのため、私には笠原氏が日本を戦争に引き入れた米内光政の実像を捉え切れていない、と思えて仕方がありませんでした。

 8月15日早朝、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で切腹し、同席した副官の介錯を拒んで絶命した阿南陸軍大臣は、その時、副官に「米内を斬れ」と叫んだ事の真の意味を教授は知らないのか、と私は問いかけたいと思いました。日本の対米宣戦布告を攻撃1時間後にアメリカに手渡した醜態を演じた野村吉三郎元海軍大将は、戦後も何のお咎めもなくノウノウと生き延び、その後もアメリカ海軍のための二軍として位置づく海上自衛隊健軍の父とさえ呼ばれています。護衛艦とはまさに実態ぴったりの名です。

 戦前の日本海軍のロンドン海軍軍縮会議を巡る内部抗争を徹底的に解明する事こそ、日本が戦争に突入した秘密を解くものだ、と私は確信しています。

 この正月、これら2冊の本を精読して、更にこの問題を考え続けていきます。