[1837]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/11/27 14:01

   大宝(西暦7003)三年の粟田真人の遣唐使と『日本書紀』との関係

 唐朝との交渉は、「壬申の乱」の年〔672〕の五月の末日に唐使・郭務宋が離日してから三十年ぶりのものであった。天武天皇が大和王朝(日本国)を乗っ取り天武の王朝を開始してから最初の遣唐使派遣であった。
 遣唐使派遣は、唐朝に対する朝貢を意味する。つまり、唐の臣下であることの表明であり、朝貢を受け入れたことは、朝貢国を唐の臣下と認めたことである。上下関係であれ国交が成立したことを意味する。
 
 日本国は、朝鮮半島で唐軍を支援する援軍の派兵を約束していた。671年十一月の郭務宋の来日は、日本国の支援を取り付ける以外に考えられるのか。
「壬申乱」の結果、天武天皇は唐との約束を反故にしたのであった。唐軍の襲来を恐れ警戒せねばならなかった。天武の王朝は強い危機感の中に出発したのである。 
 
 しかし、大宝三(703)年、遣唐使を受け入れてもらったのである。ここに唐との間の危機、緊張は解消したのである。
 因みに、669年から唐と戦争となり、半島から唐軍を排除した新羅王朝が唐朝に朝貢し、受け入れられたのは天平七(735)年の事である。それまで唐と新羅には緊張関係が続いていたのである。

 以前言及したことであるが『旧唐書』は、日本国の使者の説明する日本国の由来は信じ難い。唐の史官がそれまでの記録を基に質問しても、真実をもって答えようとしない。「故に、中国これを疑う」と『旧唐書』は記すのである。

 しかし、日本国の由来を信じてもらえなくとも、朝貢は受け入れてもらったのだ。君臣の関係が成立したのであった。日本にとってこれは大きな出来事であった。それは、それまで維持してきた緊張感、危機意識に弛緩をもたらした。

 柿本人麿の作歌活動で年代の明らかなものは、持統三(689)年の皇太子・草壁皇子への挽歌から大宝元(700)年の明日香皇女への挽歌である。
 天武の王朝が最初の遣唐使派遣に向け、必死に準備を進めていた時期が人麿の活躍時期である。人麿が平城京遷都(和銅三(710)年)以前に亡くなっていたとされるのは、この栗田真人の遣唐使と無関係ではあるまい。歴史編纂(正統性の創造)への逼迫感が薄れたためではなかったか。