[1834]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/11/24 14:35

   『日本書紀』は、唐朝を第一の読者に想定して創られた。

 『日本書紀』の編纂事業は、天武の王朝の「正統性を創造する」ことであった。
 では誰に対して「正統性を主張する」必要があったのか。当然、世界の中心であった中国統一王朝の唐朝に対してである。
「壬申の乱」のあった僅か十年前に、倭国(筑紫王朝)は唐を相手に戦争していたのである。西暦663年白村江で倭軍が壊滅してから壬申の乱が興田672年まで唐朝の官吏・郭務宋は毎回かなりの軍勢を引き連れ四度も筑紫に来ていた。(日本書紀に依る)
 四度目の離日は、壬申の乱の勃発する僅か一月前であった。この郭務宋の四度目の来日の目的は何であったのか。

 668年、隋朝から受け継いだ長年の課題であった「高句麗討伐」を新羅と協力して成し遂げることが出来た。しかし、高句麗滅亡を前後して、朝鮮半島各地で反唐ゲリラの戦いが勃発した。唐軍は最初、これらのゲリラの背後に倭国の影を疑ったらしい。
 しかし、これらゲリラの背後にいたのは、これまで協力して高句麗討伐を戦ってきた新羅であった。669年には、新羅は正面切って唐軍に立ち向かってきたのであった。唐朝には、長年の遠征で厭戦気分が生まれていた。それに対し半島統一に向けて新羅の戦意は燃え上がっていた。唐軍は、次第に窮地に追いやられていた。
 『日本書紀』は、郭務宋の四度目の来日記事に興味深い事を記す。
671年(天智十年)11月二日、唐吏・郭務宋が対馬の役所に使いを寄こし、
この度は、船舶四十七隻、総勢二千の大軍勢を引き連れて来たが、決して戦うために来たのではない故、間違って弓矢などを射ることがないように、と伝えて来たと記している。
 この来日には、筑紫君・薩野馬(さちやま)を帯同していた。筑紫君とは筑紫国(倭国)王のことである。倭国王は、世界帝国唐朝に刃向った責任を問われ、筑紫より連行され、唐の都に拘留されていたのである。国王を送還して来たのであった。
 この郭務宋の来日の目的が何であったか容易に理解できよう。唐軍は朝鮮半島で窮地に追い詰められていた。倭国に和解を求めて来たのであった。倭国の再度の新羅討伐軍の派兵を求めて来たのであった。
 しかし、日本列島代表王朝としての長い伝統を持ち誇り高い倭国であったが、今や近畿大和王朝(日本国)の臣下となっていた。倭国の都の治安さえ大和王朝に委ねなければならなかった。唐の要請も、大和王朝に丸投げせねばならなかった。
 郭務宋は、戦う為の来日ではないと云うが、47隻、二千の大軍団を率いる威圧を見せ付けての講和要求であった。断れば唐軍の襲来を覚悟せねばならなかった。

 この十二月三日、病に臥していた天智天皇が亡くなる。大和王朝は、困惑の中にあった。郭務宋の離日は、翌年の五月の末日です。この前後に大和王朝(日本国)は、美濃・尾張国を中心に百姓の徴集を開始している。総勢二万の大群衆であった。『日本書紀』は、この集団に武器を取らせていた、と記します。大和王朝と郭務宋の間で、朝鮮半島派兵への合意が付き、大和王朝は美濃・尾張で徴兵を開始したのではなかったか。琵琶湖東岸から美濃・尾張国にかけて、百済から逃れてきた人々に、天智天皇は湿原、原野を与え開墾自活を促している。美濃・尾張には、百済人が数多くいたのである。彼らを中核とする軍を半島に送ることにしたのであった。
 天武の「壬申の乱」における勝利は、大和王朝が徴集していた二万の大軍を一夜にして手に入れた事と、大和の名門大豪族の大伴氏を味方につけることに成功していたからである。
 しかし、「壬申の乱」の結果、唐との約束であった新羅討伐軍を送ることが不可能になった。唐との約束を反故にしたのであった。超大国世界帝国唐朝との約束を破ったのだ、唐軍の襲来をも覚悟せねばならなかった。幸いにも半島では新羅の勝利に終わり、唐朝は半島から手を引いたが、何時気が変わるかわからない。備えを怠るわけにはゆかなかった。正統性の創造は、日本を一つにするために必要不可欠であった。また、天武の王朝は、唐にて期待した倭国とは無関係であることを主張する必要であった。唐は、当時の世界の中心です。いずれ近いうちに唐と国交を回復する必要があったのです。