[1832]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/11/16 12:41

   『万葉集』第二巻〔167〕日並皇子尊のアラキの宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌、を検討する。

 日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)とは、皇太子・草壁皇子のことです。皇子は、天武天皇と皇后(後即位して持統天皇)の間に生まれ、天武十年に皇太子に立てられている。
 天武天皇は、朱鳥元年(西暦686)九月九日に亡くなります。当然皇太子であった草壁皇子が即位する筈ですが、どうした訳か即位の儀は取り行われなく。天皇不在のまま三年過ぎた西暦689年四月十三日、草壁皇子は亡くなってしまうのです。それ故、皇子の母、天武天皇の皇后が、翌年の正月に即位して持統天皇になります。天武天皇が亡くなってから三年三か月は、天皇不在でした。
 持統天皇は、西暦697年八月、草壁皇子の遺子・軽皇子に禅譲して隠居します。その前年の七月、天武・持統朝の最高権力者であった高市皇子が亡くなっている。
 予備知識は、そのくらいにして人麿が草壁皇子に捧げた歌を検討します。まず現代日本語訳を載せます。

 天と地が始まったとき、ヒサカタの天の河原に、八百萬(やほよろず)千萬(ちよろず)神々が、お集まりになって、それぞれの持ち分を取り決めになったとき、天照らす日女尊(天照大神)は、天(あま)を治めになるとおっしゃり、葦原の瑞穂の国の果てから果てまで治めする神の尊であると、天雲を八重かき分けて下り置かれた高照らす日の皇子(草壁皇子のこと)は、飛鳥の清御原の宮に、神として神々しく天下を領せられている母・持統天皇のお治めになる国であると、天の原の岩戸を押し開き、神上がりお隠れになった。
 わが大君、草壁皇子が天下をお治めになったら、春花が一斉に咲くように晴れやかで、満月のように満ち足りて盛んであったろうにと、天下の人々が大船に乗っているように頼みにし、旱天に慈雨を待つように仰いで待っていたのに。
 草壁皇子は、何とお思いになったのか、ゆかりもない真弓の岡にモガリの宮をお造りになり、朝ごとの仰せ言もない月日がすでに多く流れ去ってしまった。 
 それ故に、皇子の宮人達は、これからどうし良いか判らないことである。

 「葦原の千五百秋(ちほあき)の瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。さきくませ。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。」
 この天孫降臨神話は「日本天皇教」の中心教義である。この神話と持統天皇時代の皇位の移動は「同型」である。つまり持統時代を手本にして神話は創られたのである。天武天皇を正統化する作業は、神話にすら及んでいたのである。皇太子を、日並皇子(ひなみしのみこ)と呼ぶのは、この歌だけである。人麿の造語であろう。人麿が歴史編纂作業の中心人物であったことは、疑いのないことである。