[1829]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/11/04 13:46

   天皇制のイデオローグとしての柿本人麿

   天皇、雷丘(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
 大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷の上に いほらせるかも〔235〕

 この歌は、『万葉集』第三巻の巻頭歌です。「大君は 神にしませば」の表現は、第三巻にして初めて登場します。人麿の作歌活動で年月が明らかにできるのは、持統三年(689)四月に亡くなった日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)、皇太子であった草壁皇子に捧げた挽歌から、文武四年(700)に亡くなった明日香皇女に捧げた挽歌までです。
 人麿は、七世紀の晩期に活躍した歌人です。七世紀後半の極東アジアは、大変動の時期でした。日本もその動乱に巻き込まれていました。倭王朝は、百済王朝を援け、新羅を討伐するため三万余の大軍を朝鮮半島に送りましたが、唐・新羅連合軍のために壊滅させられる大惨敗を喫したのです。このため倭王朝に対する国民の信頼は一挙に喪失し、国民の深い恨みと強い怒りだけが残ったのです。

 唐朝は、日本を代表するのは九州筑紫に都を置く倭王朝と見ていました。朝鮮半島に軍を送ったのは倭王朝です。七世紀の後半になっても、日本列島には統一王朝は成立していなかったのです。近畿大和王朝は、倭王朝より格下でした。

 倭王朝の朝鮮出兵の惨敗が、近畿大和王朝と倭王朝の立場を逆転させたのです。倭王朝は都の治安もままならず、大和王朝の援けを必要とするまで落ちぶれてしまった。

 人麿の最初の歌、第一巻「29」を見てみましょう。

    近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌
 
 玉襷(たまたすき) 畝火(うねび)の山の 樫原の 日知(ひじり)の御代ゆ(神武天皇の時から) 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(天下をお治めになった) 天(そら)にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 楽波(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と云へども 春草の 繁く生ひたる 霞たち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

 人麿は、日本には大和に都を置く、近畿大和王朝しか存在しなかった、との大和王朝唯一史観で歌を作っているのである。また現代日本史学の通説は、四世紀ごろには、大和王朝の日本列島統一は完了していただろう、という。