[1827]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/10/27 13:37

   柿本朝臣人麿の登場以前と以後

 柿本人麿は『万葉集』の持統天皇の時代(687~696)に忽然と登場する。彼の作風は、重厚、荘厳、沈痛などと評され、日本の詩人には稀な堂々たる構成を持ち、唯一の長歌の成功者である。人麿の本質は、長歌にこそあるのだが、平安時代以降、和歌といえば短歌を指すようになり、万葉の長歌は長い間顧みられることがなかった。現在でも長歌の研究は、旺盛な短歌の研究に比べ微々たるものである。

 人麿を歌聖と崇め、人麿終焉の地を求めることをライフワークした斎藤茂吉さえ人麿の長歌を読んでいない。明治期に、和歌の刷新を唱えた正岡子規にとっても和歌と云えば短歌の事であった。平安時代から、人麿は歌聖と崇められてきたが、鑑賞されてきたのは、短歌のみであったのだ。

 しかし、人麿の本領は長歌にこそある。人麿は長歌に神話、歴史を練り込めて歌い上げた日本で唯一の成功した叙事詩人である。人麿の歌は、最初の歌から完成された成熟した堂々たる大人の歌として登場する。彼は、早熟な天才肌の詩人ではない、言葉を選びに選び、鍛(きた)えに鍛える練達なタイプの詩人である。

 彼は、持統朝に登場するが、天武朝(672~686)に不在だったわけでない。天武朝は、修練の時であったと考えられる。天武朝の最大の喫緊の課題は、天武天皇の即位の正統性を創造することであった。真の主宰者であった高市皇子を中心に、天武朝を正統化するため、神話、歴史を試行錯誤を繰り返し練り上げ創り上げていたのだ。

 人麿が、持統朝に出発していることは、神話、歴史の構想の目途がその頃ようやく立った、と云うことであろう。

 人麿の登場で、それ以前と何が変わったか、それは「天皇が神に昇華した」ことである。天智天皇も天武天皇も、神として歌われていないのである。

   軽皇子(後の文武天皇)の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
 やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷くかす ***〔45〕

   天皇(天智)崩(かむあが)りましし時、婦人の作れる歌 
 うつせみし 神にたへねば 離(さか)りゐて 朝なげく君 放(はな)れゐて わが恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣(きぬ)ならば 脱ぐ時もなく わが恋ふる 君ぞ昨夜(きそのよ) 夢に見えつる〔150〕

   天皇(天武)崩(かむあが)りましし時、太后の作りませる御歌
 やすみしし わが大君の 夕されば 見し賜ふらし 明け来れば 問ひ賜ふらし 神岡の 山のもみちを ***〔159〕

 天皇、皇子に対する常套句「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと」は、柿本朝臣人麿の長歌に源を発する。