[1816]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/09/14 12:33

  修史事業の中心にいた柿本朝臣人麿

 天武天皇の命令で始まった修史事業は、天武天皇の正統性を創造することであった。「壬申の乱」は、倭国の大皇弟による近畿大和王朝乗っ取り事件であった。戦いに勝利した天武には、正統性が絶対に必要であった。この正統性の創造を命じられたのが柿本人麿であった。ご存知のように人麿は、正史『日本書紀』『続日本紀』に一度も登場していない。故に謎の人物と云われ『万葉集』から奈良遷都以前に、石見国で下級地方官吏亡くなったと云われている。
 冗談ではない、人麿が地方の下級官吏などであったはずがない。天皇信仰の中核をなす万世一系(神代から天照大神の子孫である天皇が絶ゆることなくこの芦原の瑞穂の国を治めてきた)の創造者である。この王朝の最大の事業が、この修史である。その中心にいた人麿が、地方の下級官吏であったはずがない。奈良遷都(和銅三年、西暦710)以前に、柿本人麿としての役割を終えていた。人麿自身が、奈良遷都以前に死んだことを装ったのだ。人麿は、正史に全く登場しない、それは本名でないからだ。仮の名、ペンネームなのだ。人麿自身も、この修史は、歴史の捏造であることを自覚していたのだろう。神をも恐れぬ行為であることを。これから何回か人麿の歌を見てゆきたい。

 『万葉集』第一巻、29「近江の荒れた都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」

 玉襷(たまたすき) 畝傍の山の 樫原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 鄙にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の ささなみの 大津宮に 天の下 知らしめしけむ 此処と聞けども 大殿は 此処と云へども 春草の 繁く生ひたる 霞たち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

 この歌が『万葉集』に登場する人麿の最初の歌である。万世一系の思想が語られた最初の歌である。

「橿原の 日知の御代ゆ(神武天皇の時から) 生れましし 神のことごと(全ての天皇が) 栂の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(絶ゆることなく天下を治めてこられたのを) 天にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え 」

 人麿以前の歌には、この「万世一系」の思想はない。