[1811]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/08/31 11:41

    藤原氏について

 藤原不比等が『日本書紀』に登場するのが持統三年(689)です。これ以前には、藤原氏は存在しません。すべて中臣氏です。『日本書紀』は、万世一系の天皇の日本統治を正統化するために創られた書ですが、また藤原氏の存在を正当化する書でもあります。

 天武天皇の時代に始められていた「史書編纂」は、大宝元年(700)には、一応完成を見ていた。遣唐使・粟田真人は、それを携えて唐に渡ったのでした。しかしそれのあまりの独創ゆえ、唐朝に受け入れてもらうことが出来なかった。改訂する必要がありました。改訂作業の参考にしたのが中国最新の正史『隋書』でした。
 
 『古事記』は、改訂版『日本書紀』の青写真です。『古事記』が推古天皇で終わっているのは、隋朝が推古天皇の時に滅び、記述がそこで終わっているからです。『古事記』は、和銅五年(712)正月、稗田阿礼が語ることを、太安万侶が書記した、との序文を持つ。

 この二年後の和銅七年、「壬申の乱」の生き残りで、天武朝・持統朝の真の主宰者・高市皇子の片腕で、軍の実権を握っていた大納言兼大将軍・大伴安麿が亡くなっています。この時から藤原不比等が亡くなる養老四年(720)八月までが真の不比等の時代です。『日本書紀』は、この年の四月に撰上されています。不比等は、改訂『日本書紀』に、藤原氏の存在の正統性を創造して書き入れました。

 天智八年十月十日、内臣・中臣鎌足が重い病に倒れたので、天皇が自ら見舞いに出向き、これまでの労をねぎらった。また十五日”天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わして、大織冠と大臣の位とを授く。よりて姓を賜いて、藤原氏とす。これより後、通して藤原内大臣と云う。十九日、天皇、藤原内大臣の家に幸(いでま)す。”

 不比等の時代は、いまだ天智勢力と天武勢力が拮抗していた。不比等死後に実権を握ったのは、高市皇子の息子の長屋王(ながやのおおきみ)です。不比等は、用心深く大皇弟(後の天武天皇)の顔もちゃんと立てて『日本書紀』を創っています。養老四年の不比等の死から、神亀六年(729)二月、長屋王殺害まで、長屋王の時代です。長屋王の殺害は、不比等の四人の息子の共謀です。不比等の四人の息子はそれぞれ独立して藤原四家を作りました。長男の武智麿の家を南家と云い、次男・房前(ふささき)の家を北家、三男・宇合(うまかい)の家を式家、四男・麿の家を京家と呼びます。

 天武系勢力の重心・長屋王を滅ぼし、藤原氏の時代が始まったかに見えました。しかし、好事魔多し、天平九年(737)、わずか四か月の間に、藤原四家の当主が四人とも病に倒れ死んでしまった。人々は、長屋王の怨霊が荒れ狂うのを見たのです。長屋王の遺子・鈴鹿王を知太政官に祭り上げ、天武系の人物である橘諸兄を右大臣に任じ、長屋王の荒れ狂う御霊を慰めた。ここに天武勢力が息を吹き返したのです。
 続く。