[1810]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2015/08/24 09:22

   大伴氏の立場 2

 壬申の乱の天武(大海人皇子)の勝因の第一は、美濃尾張国で近江朝(大友皇子)が徴兵していた二万の民衆を何の抵抗もなく手に入れたことです。
 そして第二の勝因は、大和古京で名門大豪族の大伴氏が一族を結集して天武に付いたことです。

 この大伴氏で最も活躍したのが、大和古京での蜂起の成功を、不破関(今の関ヶ原)に陣を張っている総大将高市皇子(天武の長子)に伝えた大伴安麿でした。安麿は、孝徳天皇(在位645~654)の下で右大臣を務めた大伴長徳の第六子と書かれています。

 大伴安麿は、和銅7年(西暦714)五月、正三位大納言兼大将軍で亡くなっています。天武・持統朝の真の主宰者であった高市皇子が亡くなった持統十年以降、軍事の中心にあり文武朝・元明朝に睨みを利かせていた。安麿は。高市皇子の片腕であったと考えられます。

 この安麿が『万葉集』の中心的歌人の大伴旅人、大伴坂上郎女の父、『万葉集』の最終編者と考えられている大伴家持の祖父であることは前にも述べました。

 『万葉集』から安麿の最初の妻が、近江朝の大納言巨勢人卿の娘であったことが判ります。巨勢人卿は、大友皇子(明治に追号され弘文天皇)に最後まで忠義を尽くし「壬申の乱」の後、本人並びに子孫を悉く流罪に処す、との重い刑を受けています。安麿の最初の奥さんは、この巨勢人卿の娘だったのです。大伴旅人は、安麿と巨勢人卿の娘との間に誕生している。安麿の家庭を悲劇が襲っていた。安麿と妻は、引き裂かれていた。

 安麿の二番目の妻は、石川郎女です。石川郎女は『万葉集』の中心的ヒロインです。草壁皇子(天武天皇と皇后後の持統天皇の間の子)と大津皇子が、石川郎女を争った歌が『万葉集』に残されています。

   大津皇子、石川郎女に送る御歌一首
 
 あしひきの山のしずくに妹待つと われ立ち濡れぬ山のしずくに 〔107〕

   石川郎女、和(こた)へ奉る歌一首

 あを待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくに成らましものを 〔108〕

 この〔108〕後の歌〔109・110〕を読むと、石川郎女は、皇太子草壁皇子の寵愛を受けていたが、草壁皇子のもとを去り、大津皇子に走った。大津皇子が殺害された原因に、この事があったのではないかと云われている。
 つまり、石川郎女はいわく付の女性であった。草壁皇子の母である持統天皇に睨まれている存在であったのです。安麿の次男・大伴田主は、石川郎女との再婚に反対であったことが『万葉集』より判明します。
 この石川郎女との間に生まれたのが女流歌人として最も多くの歌を残した大伴坂上郎女です。

 和同7年(714)、大伴安麿が亡くなった後、第一の実権者に君臨したのが藤原不比等(養老四年、西暦720没)です。この不比等の時代に『日本書紀』は精力的に改修され完成を見ています。なお『古事記』は、和銅五(712)年正月に書いた、と序文は述べています。

 藤原不比等の父・中臣鎌足は、天智天皇の信頼の篤い片腕でした。持統天皇は天武天皇の皇后でしたが、天智天皇の娘です。また元明天皇も天智の娘です。天智の娘たちは、父の信頼篤い中臣鎌足の遺子・藤原不比等を上手に匿い、大事に育て上げたのだと思います。天智系勢力の中心に藤原氏が成ってゆきました。

 それに対し、天武系勢力の中心は大伴氏でした。藤原不比等が亡くなった後、高市皇子の子・長屋王が右大臣、左大臣(721~729)になり実権を握ります。まだまだ天武勢力が健在であった証拠です。
 しかし、神亀六年(729)二月、藤原不比等の四人兄弟の共同謀議により長屋王は、謀反の濡れ衣を着せられ殺害された。天武系勢力の大々挫折です。天武系勢力の中心、長屋王家の藩屏の中心であった大伴氏は、何をしていたのか。
 大伴氏の頭領・大伴旅人は、神亀四年の年末に太宰帥を拝命し、都を留守にしていたのです。帰京するのは天平二年(730)の年末です。大納言に昇進して帰京しています。『万葉集』は、第五巻を中心に、旅人の太宰帥時代の歌を数多く残しています。それらの歌を読むと、藤原四兄弟と、大伴旅人の間に、取引があったとしか思われないのです。大伴旅人が、長屋王を裏切ったのではないかと。