[1799]『明治維新という過ち』について

田中進二郎 投稿日:2015/07/03 06:53

『明治維新という過ち』について
田中進二郎

原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ 2015年1月刊)は現在、歴史の本の中で非常に売れ行きがよいそうだ。
これまでの幕末の歴史が、司馬遼太郎をはじめとして薩摩・長州出身者を英雄視した「薩長史観」であったが、最近はそれが大きく揺るがす本がいろいろと出ている。
私もこの本を読んでみた。著者の原田伊織氏は、「昭和30年代に小学生高学年だった」とあるので、現在のお歳は70代後半であろう。

原田氏は、少年時代に母親から切腹の作法を教え込まれた、と書いている。戦後になっても、武家の血筋をひいた家では、切腹を躾(しつけ)として教えていたというのは驚きである。
そのような家庭で育った原田氏が、戊辰(ぼしん)戦争の際に敗れて集団自決した、会津の白虎隊や、絶望的な切り込みをして玉砕した二本松少年隊などに武士の美風を見出して讃えるのは、自然といえば言える。

●トーマス・グラバーが持ち込んだ圧倒的質量の武器弾薬

この本では、会津戦争に代表される東北戊辰戦争を中心に、薩長の武力倒幕がいかに非道であったかが述べられている。
薩摩・長州を主力とした新政府軍は江戸城開城(1868年 慶応四年4月11日)のあと、会津藩(福島県)や庄内藩(山形県)・仙台藩を中心とした「奥羽越列藩同盟」を朝敵とみなし、征伐する兵を繰り出した。小銃と、大砲を有した西軍(官軍)の前に、東北諸藩は一方的にやられるだけだった。戊辰東北戦争とは、原田氏によると、「ライフル銃部隊(新政府軍)と火縄銃部隊(東北諸藩)の戦いで、百戦すれば百勝するほどの武器の性能に違いがあった。」(p222より引用)
いくつかの戦闘で列藩同盟軍が十倍の兵員で新政府軍を迎え撃っても、逆に十倍の死傷者を出している。

「東北戦争の最初の本格的な戦いといわれる白河戦争では列藩同盟軍は死者700名以上、負傷者は2000名をだした。一方西軍(新政府軍)は死者わずか10名、負傷者38名という軽微なものだった。この戦いには大垣藩(岐阜県)が火箭砲(かせんほう)を持ち込んでいた。火箭砲とは、焼夷弾を打ち込む砲だと考えればいい。これが、列藩同盟軍の陣地を焼き、逃げる兵に対して、射程の長い(600m~800m)スナイドル銃が火を噴くといった様相であった。同盟軍兵士のゲベール銃の射程距離は80m~100mに過ぎず、彼らは立ち上がって弾を込めており、これを伏せたままの新政府軍が狙い撃つ。つまり、これはもはや戦いとは言えなかったのである。」
(以上『明治維新という過ち』p224より引用)

田中進二郎です。薩長を中心とする西南諸藩に、トーマス・グラバーは大量の武器を調達していた。同時に幕府の注文にも応じていたが、やはり大半は討幕側にわたったようだ。グラバーは総計で18万丁の小銃と大砲を国内に持ち込んだ、とされている。

●会津戦争とプロイセンの宰相ビスマルク-新潟港をめぐる国際外交

星亮一著『会津戦争全史』によると、西軍(官軍)が最初に攻略した白河口の緒戦では、会津軍が西軍に勝っている(1868年4月20日)。これは、会津藩が開港間もない新潟港から購入したスナイドル銃(施条式銃・ライフル)を戦場で用いたためだった。一方の政府軍は旧式のゲベール銃だったから負けた。新潟港まで船で武器を運んできていたのは、プロイセン・ドイツの武器商人・シュネル兄弟だった。
だから新潟港は、会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟にとっての生命線だったのである。
このとき、イギリス大使パークスは、新政府軍を有利にするべく『局外中立』をアメリカ・フランス・イタリア・オランダに通達した。内戦を理由にして、できるだけ新潟開港を遅らせようとした。
イギリスは新天皇(明治天皇)をいただく新政府を正当と断定し、東北諸藩や旧幕軍は反乱軍と、きめつけた。一方、アメリカ大使は、旧幕府の権威はまだ高いとみていた。
アメリカは、軍艦ストーン・ウォール号(甲鉄艦)の明治新政府側への引き渡しを渋りつづけた。
一方、プロイセン(プロイセン帝国が成立するのはこの3年後の1871年のこと。)の宰相ビスマルクも、奥羽越同盟軍を支持する構えを見せてはいた。さきほどのシュネル兄弟の兄ハインリヒ・シュネルが、会津藩と庄内藩(山形県)を支援するように、プロイセン政府に掛け合ったからである。東北の列藩同盟の中には、蝦夷(えぞ・北海道)の松前藩も入っていた。だから、列藩同盟は『蝦夷地を割譲(かつじょう)するかわりに、プロイセンの軍事支援を求める』という文書をプロイセン駐日代理公使のブラントに送った。ちなみにシュネル(兄)は武器商人として活動する前には、このブラントのもとで文書の翻訳を担当していたらしい。
手紙は、二か月かかってビスマルクの手に届いた。しかし、イギリス帝国の万国公法を「錦の御旗」にした外交戦略の前に、ビスマルクは会津藩の支援の要請を断らざるをえなかった。
会津とプロイセンの秘密外交を明らかにする書簡が、もうすぐドイツ語から日本語に翻訳され本になるようである。(洋泉社ムック『八重と会津戦争』p122にこのことが書かれている。)

皮肉なことに、ビスマルクに向けて公使ブラントが送った手紙が届く前に、既に新潟港は新政府軍によって押さえられてしまった。東征軍参謀の西郷隆盛が自ら、軍艦に乗って新潟港奪取の攻撃を行ったのである(1868年7月)。
このとき、幕府の脱走艦隊を指揮していた榎本武揚(えのもとたけあき 幕府海軍副総裁)は、新潟港を守るために動こうとはしなかった。榎本は「あくまで薩長軍と戦う」という決意表明をしておきながら、品川沖でひたすら待機していた。榎本武揚と勝海舟が裏で完全に示し合わせていた、ということは、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房 2014年刊-以下『フリーメイソン=ユニテリアン』と略記)の第3章で長井大輔さんが、克明に暴いている。

榎本武揚は同僚に向かって、「奥羽のやつらは時代遅れの武士の価値観を持ち続けているので嫌いだ。」ということも言っていたらしい。会津藩は薩長だけにやられたのではない。徹底抗戦を唱えた幕臣たち(インナーサークルのひとびと 生き残って新政府の要職についていった)からも裏切られていたのである。
ここが分からない人が多いから、薩長史観でなければ、佐幕派・会津史観だという二項対立に陥るのである。
新潟港が官軍の手に落ちた直後に、河井継之助(かわい つぐのすけ)率いる長岡城も、官軍を苦しめたのちに落城した。河井は最新式の機関砲のガトリング砲も二門購入していたが、これもシュネル兄弟によって新潟港まで船で運ばれたものだった。
河井は会津に向かって転戦する中で負傷し、死亡する。
長岡城が落城した同日に(7月29日)に二本松城(福島県〕が三春藩の裏切りにもあい、落城している。二本松少年隊は最後の斬りこみを行って、ほとんどが玉砕した。
『フリーメイソン=ユニテリアン』の中で、副島隆彦先生は、会津戦争のときに官軍の鉄砲隊に切込みをかけて、死んでいったのが日本陸軍の「万歳特攻(吶喊―とっかん)」の始まりだろう、と書かれている。(同上 第2章p73より)

●テロリスト扱いされている赤報隊・相楽総三は草莽の士

『明治維新という過ち』で原田伊織氏は、薩長が幕府及び幕府に味方する諸藩を武力でたたく口実をつくるために、ひどい挑発行動をとった例を挙げている。
その一人は、西郷隆盛から特命を受けて、江戸市中を荒らしてまわった、相楽総三(さがら そうぞう)である。相楽は赤報隊隊長として、江戸で火付け、略奪、殺人を繰り返して幕府を挑発しつづけた。しびれをきらして、薩摩藩邸を包囲し、砲撃したのが幕府と庄内藩だった。これで、幕府もろとも庄内藩は「官軍」の敵になってしまったのだ。江戸無血開城の前日に、会津と庄内藩の二藩同盟は成った。(1868年4月10日)
 p62

一方、赤報隊隊長・相楽総三は、江戸で暴れたのちに、西郷隆盛によって、今度は東山道方面の薩長軍の先鋒に任命された。そして、中山道の各宿場に『年貢半減』を約束しながら、軍資金を調達して進んだ。宿場の本陣や富農たちは、相楽の赤報隊になけなしの金を出した。
相楽総三は今このときが、草莽崛起(そうもうくっき)の時であるとして、関東や東山道にひそんでいたゲリラ部隊を蜂起させ、民衆による倒幕=革命の開始を呼びかけていったのである。なんと、相楽総三は、水戸天狗党の残党だった!
西郷隆盛は相楽を起用することの危険性をよくよく知っていたのである。西郷隆盛の
有名な言葉に
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり」(『西郷南洲遺訓』という言葉がある。
この西郷の言葉は、相楽のような草莽の士を指している。

しかし、その後にあらわれた「官軍」は「さきほどの赤報隊は偽官軍」だといって、相楽をとらえ、首をはねた。そのあと、金をだした庄屋たちも、役人たちから取り調べをうけた。このことは、島崎藤村の長編小説「夜明け前」に臨場感をもって描かれている。島崎藤村がこの小説で描いたテーマとは「薩長の明治政府の成立そのものが、閉塞した時代状況の元凶をなしているのではないか。」という大きな問いかけなのである。幕末に、中山道を通っていった水戸天狗党や、赤報隊の屍の上に、明治新政府は建てられたのではないか。という問いなのである。だから島崎藤村は、プロレタリア作家の小林多喜二が『蟹工船』を出したのと同年(1929年昭和4年)に、『夜明け前』の連載を開始しているのである。
(梅本浩志著『島崎藤村とパリ・コミューン』社会評論社2004年刊を参考にした。)

原田伊織氏の『明治維新という過ち』のタイトルもいわんとするところは同じだろうが、相楽総三や尊王攘夷の志士たちは「イスラム国=IS」のテロリストとやっていることに違いはない!という言い方は、センセーショナルではあるが、問題の核心には迫れない主張である、と私田中は思った。 

赤報隊の相楽総三にしても、浪士組(のちに新撰組になる)を京都で結成した清河八郎(きよかわはちろう)にしても、水戸の天狗党に加わっていた。ついでに近藤勇に粛清された新撰組・芹沢鴨(せりざわかも)もそうだったようだ。筑波山(茨城県)に立てこもった連中たちは、おそらくかがり火をたいて、激論をかわしていただろう。藤田小四郎(藤田東湖の息子)や武田耕雲斎の方針には従えないとして、山をどんどん下りていった。水戸天狗党は雪中行軍のすえ、包囲されて、頼みの一橋慶喜にも裏切られる。そして鰊小屋に詰め込まれて(この小屋は福井の敦賀に現存しているそうだ)首をはねられた。このあと、生き残った残党たちはあらたな倒幕運動をおこしていったのである。清河八郎の「回天」=倒幕の思想の原点はここにあったのだろう。しかし、また彼らも一人ずつ消されていった。
新撰組の芹沢鴨については、暗殺された理由は通説のように、「素行不良」だったのではなく、攘夷を決行するため宮家(有栖川宮)に接近したためだ、という説が生まれている。芹沢の無断行動に怒った会津藩の公用人らが暗殺を指示したのではないか、と歴史家の星亮一氏は『幕末日本のクーデター』(批評社 2013年刊)の中で述べている。

彼らは国を憂えて立ち上がって、殺されていった人間たちだ。このことは副島隆彦先生の『属国日本論』をよく読めばわかる。

●賤民で構成された奇兵隊の野蛮さ

しかし、一方で長州藩の奇兵隊は、これまでの(司馬遼太郎氏によって流布されてきたような)、「階級の違いを超えて国を憂える草莽(そうもう)が立ち上がった」というようなものではなかった。長州藩の最下層の、教育も受けていない賤民たちに当時の最新武器を持たせて、訓練したものだった。これは原田伊織氏のいうとおり、事実だろう。

奥羽鎮撫軍 下参謀として仙台藩に下り、乱暴狼藉(ろうぜき)を繰り返した世羅修蔵(せら しゅうぞう)はその典型だ。世羅を仙台に向かわせたのは、木戸孝允だ。仙台藩も戦いに巻き込ませようと画策したのだろう。世羅修蔵が仙台に向かうと聞いて、長州の品川弥二郎は仙台藩家老の但木土佐(ただき とさ)に向かって、「世羅とはひどいのが行くな」と同情した、という。やがて仙台藩士の怒りを買って、処刑される。(1868年4月20日)仙台藩は世羅を斬ったここでふっきれて、会津藩とともに徹底抗戦すると決定する。

―たまたま6月30日の日経新聞を見ていたら、仙台藩家老・但木土佐の血縁にあたる但木敬一氏(弁護士・元検事総長)の文章があった。これによると、
但木土佐は明治二年(1869年)5月19日戊辰戦争の首謀者として仙台藩麻布下屋敷にて斬首刑に処せられた。家名断絶、家禄没収の沙汰を免れず、約15年間「但木」の名を使う事さえ禁じられた。
とある。-やっぱり長州ひどいなあ。

●木戸孝允と大村益次郎の江戸でのつながり

賤民の「中等以下の知能の」(少なくとも戊辰戦争では新政府軍は、戦国時代の足軽程度の道徳観念しかなかった)民兵を、急ピッチで近代の軍隊に変えるために長州に招かれたのは村田蔵六(大村益次郎)である。招いたのは桂小五郎(のちの木戸孝允)だ。村田蔵六は長州に行くにあたって名前を変名し、大村益次郎と名乗った。グラバーは長崎にやってきた彼に4000丁余りの銃を売っている。彼も高杉晋作と同様、上海に渡っているので、ジャーディン・マセソン商会と接触していただろう。大村は、奇兵隊ほか長州藩兵に、ゲリラ戦術を徹底して仕込んだと考えられている。
桂小五郎と大村益次郎の関係は、かなり早いころからあった。司馬遼太郎氏は、江戸の刑場で、村田蔵六(大村)が蘭書を片手に解剖の授業をしているところに、偶然に桂小五郎が出くわして、彼の才能に目をつけた、いう。(小説「花神」)。司馬遼太郎は重大なところでいつもウソを書く。

大事なことは、桂小五郎は尊王攘夷の皮をかぶりつつ、蘭学者たちのネットワークの中にも入り込んでいた、ということだ。手塚律蔵(てづかりつぞう)という長州出身の貧しい家の出の洋学者が、桂を江戸の私塾で教えている。ここで西周(にしあまね)も学んでいる
このことは少しだが『フリーメイソン=ユニテリアン』で私田中進二郎が書いた。P104より引用する。

(引用開始)

手塚律蔵は蕃書調所の教授手伝(てつだい)として、西周のほかにも、木戸孝允、津田仙(つだ せん 津田梅子の父)らに教えた。手塚の尽力もあって、翌年には西周も「蕃書調所教授手伝並」という肩書きをもらって、幕府に採用される。津田真道も西と同じポストについた。ここで教鞭(きょうべん)をとった人物は、大村益次郎、寺島宗則、加藤弘之(かとう ひろゆき)らがいる。日本中の頭脳がここに集まった。(p104)

(引用終わり)

手塚律蔵は西周をジョン・万次郎(中浜万次郎)に紹介しているから、フリーメイソンのインナーサークルの一員である、と考えられる。手塚は、長州藩の江戸屋敷で藩士たちを前に開国の重要性を論じたところ、尊攘派の藩士に命を狙われ、江戸城のお堀に飛び込んでなんとか命拾いした、という。そのあと瀬脇寿人と変名までしている。
それなのに、水戸の尊攘派と気脈を通じていた桂小五郎は、手塚の門人となっているのは奇妙きわまりないことだ。
桂小五郎も、大村益次郎も尊攘派の志士たちの中に入り込んで、上から操る役割をしていたのだろう、と推測がつく。ここらへんはこれからの研究課題としたい。

最後に。『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房)のご購読どうぞよろしくお願いします。
(終り)
田中進二郎拝