[1793]天武天皇の正統性について
『日本書紀』に保険を掛けた藤原不比等
『日本書紀』天智八年十月より(筆者、訳す)
十月十一日
天皇、藤原内大臣(中臣鎌足)の家に幸(いでま)して、自ら鎌足の病を問いたまうた。
鎌足、甚だかたじけなくありがたく思い、恐縮した。
天皇、曰(のたま)はく「そなたの朕(われ)を助ける功績は甚だ大きいものがある。その功績に報いてやりたい。望ものがあれば遠慮なく申すがよい。」
鎌足答えて云う「もうお役に立たない身になってしまいました。これ以上何を望みましょう。ただ葬式は、出来るだけ質素に行ってください。」
この言を聞いた時の賢者たちは、さすが内大臣である。後の人々は長く誉め伝えるであろう」と言った。
十五日
天皇、東宮大皇弟(大海人皇子、後の天武天皇)を藤原内大臣の家に遣わして
大織冠と大臣の位を授く。
依りて姓を賜いて、藤原氏とする。此れより以後、藤原内大臣と云う。
十六日
藤原内大臣薨(みう)せぬ。
守谷健二です。ここに藤原氏の由来が書かれています。正史『日本書紀』の中にです。しかし、私はこの記事は出鱈目だと信じています。藤原氏の正統性を創造した記事である、と。
中臣鎌足には二人の息子が知られています。長男は定恵と言い出家しています。出家とは世を捨てる事、生きながら死んでいることです。決して名誉なことではありませんでした。
次男が後右大臣まで出世する藤原不比等です。彼には幼時、難を避けるため、山科の田辺の大隅に養われていた、、との伝承があります。
また、「壬申の乱」では、極刑の斬首になったのは、右大臣の中臣金ただ一人でした。
不比等が『日本書紀』に登場するのは持統天皇の二年です。持統天皇は天武天皇の皇后ですが、天智天皇の娘です。「壬申の乱」の勝利を手放しで喜んではいませんでした。首謀者である高市皇子(天武の長男)に深い怨みを抱いていました。しかし高市皇子は軍を握る最高権力者でした。恐ろしい存在であったのです。
不比等が藤原氏を名のったのは、中臣鎌足の子であることを隠すためのカモフラージュだったのが真相だったのではないか。
『日本書紀』は、藤原不比等が右大臣で最高権力者の時編纂を終えています。藤原氏の正統性を創造するなど朝飯前でした。
また興味深いのは、中臣鎌足が、東宮大皇弟(天武天皇)にも大事にされていたように書いてあることです。『日本書紀』が上程されたのは養老四年(720)です。この年不比等も亡くなっています。この後右大臣に就き権力を握るのが高市皇子の子・長屋王(ながやのおおきみ)で、彼の母は、皇太子・草壁皇子の妃・阿部皇女(後即位して元明天皇)の実の姉・御名部皇女です。
また長屋王の妃は、草壁皇子の娘・吉備内親王(元正天皇の実の姉妹)でその間に男子が生まれていました。
不比等の時代は、まだまだ天武系の勢力と天智系の勢力が拮抗していました。東宮大皇弟にも気を使う必要があったのです。
6月五日書く。続く