[1790]天武天皇の正統性に付いて
天武天皇の結婚と天智天皇の娘たち
『日本書紀』には、十人の天智天皇の娘が記されている。実に驚くことに、その中の四人をも天武は娶っているのである。
また高市皇子(天武の長男で、「壬申の乱」の真の首謀者で、天武朝・持統朝の主宰者)は、二人を娶っており、草壁皇子にも一人を配し、大津皇子にも一人配している。
天智天皇の十人の娘の八人までも天武天皇と、天武の皇子等が娶っているのである。
最初の結婚相手は、六六一年正月八日、斉明天皇の筑紫行幸に帯同し、船上で大伯皇女(おほくのひめみこ)を出産した大田皇女である。大田皇女は、大津皇子も儲けている。
次の結婚相手は、大田皇女の実の妹(両親が同じ)の鵜野皇女(天武天皇の皇后、後に即位して持統天皇)で、草壁皇子(皇太子)を設けている。
大田皇女の方が姉で、最初に結婚していたのだから天武天皇の皇后は、大田皇女に優先権があったと思えるが、早くに亡くなっていたのか、妹の鵜野皇女が皇后に就いている。
しかしここに問題があった、姉の子・大津皇子と、妹の子・草壁皇子との即位の優先権争いであった。
六八六年、天武天皇が薨去するや、皇后(持統天皇)は、即座に大津皇子に謀反の罪を着せ殺害している。草壁皇子が即位できなかったのは、この時の後ろめたさがあったせいではないか。世間の評判が最悪だったのだろう。
草壁皇子と結婚した天智の娘・阿陪皇女(後即位して元明天皇)は、一人の皇子(文武天皇)と二人の皇女(一人は即位して元正天皇)を儲けている。
阿陪皇女の実の姉・御名部皇女を高市皇子が娶っているのだ。その間に長屋王(藤原不比等の後、右大臣、後最高位の左大臣に就いたが、七二九年、藤原不比等の四人の息子の陰謀で謀反の罪を着せられ殺害)が生まれている。
『日本書紀』は、天智天皇と天武天皇を実の兄弟と記す。それならどうして天智の娘たちを独占する必要があったのだ。天武の結婚と、その皇子たちの結婚を見ると、それはまるで家畜の品種改良で、二つの異なる形質の個体から新たな形質を作り固定化させる時の交配過程を思わせるのだ。