[1787]古代奈良湖の存在と大和王権(その2)

田中進二郎 投稿日:2015/05/12 09:28

「古代奈良湖推定図」の添付ありがとうございます。

この[1778番の投稿文]地図中にある、黒い▲のマークは縄文時代の集落の遺跡の場所。白い▲のマークは弥生時代の集落。黄色のマークは各種の古墳です。銅鐸出土地は、銅鐸によく似た形です。

●カール・ウィットフォーゲルの「水力文明」

私が「古代奈良湖」に注目した理由は、単に古代史のロマンということではない。竹村公太郎氏の説を読んでいるうちに、ウィットフォーゲルの「水力文明(社会)」や「東洋的専制主義」を思い出したのである。「古代奈良湖」および大和川の大規模な灌漑事業が、古代大和王権を生み出すことになったのではないか?と。

ウィットフォーゲルという人物の名は、おそらくマルクス主義研究をやったことのある人ぐらいにしか知られていないであろう。
『小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』より紹介する。

(引用開始)

・ウィットフォーゲル(1896~1990 Wittfogel, Karl August)
アメリカの中国社会経済史家ユダヤ系ドイツ人としてハノーバーに生まれる。ハイデルベルグ大学でマックス・ウェーバーに師事。ドイツ共産党員として活動する一方、1925年からフランクフルト社会研究所員として中国研究に専念。この時期の代表的著作『解体的過程にある中国の経済と社会』(1931)はマルクス主義の立場から、旧中国の専制的官僚制の基盤を大規模な国家的治水事業に求めて注目を集めた。1933年ナチスに追われてアメリカに亡命し、コロンビア大学、ワシントン大学教授を歴任。中国滞在(1935~1937)の成果である『東洋的社会の理論』(1938)は名高い。第二次世界大戦後、『東洋的専制主義』(Oriental
 Despotism, 1957)ほかの著作で、ソ連、中国を全体主義国家とする立場を表明した。
その「水力社会の理論」は再評価されている。(文・望月清司)

(引用終わり)

田中進二郎です。上に付け加えると、ウィットフォーゲルの理論は、スターリンの「史的唯物論」と衝突した。また、スターリンの「自然改造計画」や毛沢東の大失敗に終わった「大躍進政策」を「東洋的専制」と批判したため、「反共主義者」としてアメリカの学会から追放されることになった。冷戦終了後に再評価が進み、日本でも湯浅赳夫(ゆあさ たけお)氏、石井知章氏らが研究している。

ウィットフォーゲルの「水力社会」では、巨大な灌漑事業が、農業管理的官僚を生み出し、支配的階級を生みだす。また、統括された集団的労働力は灌漑事業の現地指揮者、訓練者のほかに総体的な組織者(つまり王権)と計画者による指揮活動を必要とする。この典型として彼は中国とインドをあげた。

しかし、ここでウィットフォーゲルは日本を「水力社会」の例として強調しなかったようだ。
古代四大文明の成立の説明にはなっても、日本の大和王権もそうだ、とはっきり言いだす人がいなかった。それは日本の左翼的歴史学者がウィットフォーゲルを「反共主義者」と考え、
右翼的歴史学者が「唯物論」だととらえたせいでもあろうか。

しかし、拙論の第一回で挙げた『竹村公太郎の「地形で読み解く」日本史』を読み、古代日本にも「水力社会」があてはまる、と私田中は考えた。
この本では、養老孟司が竹村公太郎の歴史観を「唯物史観ですね。」と評していたが、ウィットフォーゲルの水力社会論だ、といった方がよりぴったりとする。さらに灌漑だけでなく、水運も、欠かすことができない視点である。そろそろ本題の古代大和王権論に移ります。

●古代奈良の灌漑の歴史は抹殺されている

この連休を利用して、奈良盆地を二日間で40キロほど歩いた。現在大和川とその支流である飛鳥川と曽我川が合流する地点に廣瀬大社という神社がある。(拙考その1の地図中央にある「島の山古墳」の左側)
前回の拙論で書いた、大塚山古墳群と同じ河合町にある。ここは古代には水足池(みずたるのいけ)という広大な沼地であった、という言い伝えがある。訪れて一瞬でわかるのだが、もともとここは川の堤防だということだ。鳥居をくぐって参道の東側がずっと土手になっている。かつては神社のわきに曽我川が流れていたのだろう。しかし、境内の案内板のどこにも治水工事のあとにできました、とは書かれていない。
この神社には奇祭として知られる「砂かけ祭」がある。

「廣瀬神社 奇祭水かけ祭り」面白いので見て下さい↓諏訪太鼓の後、すぐ始まります。
http://youtu.be/c7YOhkd8O8k

この祭りをみれば、ご先祖さまたちが治水工事をやったことを忘れるな!という祭りだということは明らかだ。しかし、「五穀豊穣を願うため」とか「御田植え祭」と神社の説明板にはあるだけで、治水に関する記述はない。この不正直さが問題だ。真実が押し殺されている。ここはおそらく蘇我氏が湖を干拓し、川を通し、堤防を作っていったのであろう。蘇我蝦夷・入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足によって殺された後、蘇我氏の業績は消されていったのだろう。

しかし、腑(ふ)に落ちないことがある。この神社の縁起では、「崇神(すじん)天皇九年(紀元前89年-この年代はあてにならない)に異人(渡来系の人物か)が現れ、一夜のうちに沼地(水足池)が陸地に変わった。」とされている。
ところがまた、廣瀬大社の本来の祭神は長スネ彦(ナガスネヒコ)であるという。
ナガスネヒコは「古事記」の中で神武天皇東征のときに、抵抗して殺された土着の首領である。ちなみに古代史作家・関裕二氏の『天皇と鬼』(悟空出版 2014年刊)の中で、彼の名の「長スネ」とは身体的な特徴をさしていて、東国出身の蝦夷(えみし)である。また出雲から進出してきた饒速日(ニギハヤヒ-物部氏の祖)に服属していた、と述べられている。

表ではハツクニシラスノミコトと呼ばれる第十代・崇神天皇を祀り、裏ではナガスネヒコ
を祭神としている。
しかし、どちらも物部氏と関連深い人物だ。すると、ここに住んでいたのは、物部の部(べ)の民(たみ)かもしれない。しかし、製鉄(たたら)や祭祀に関係が深い物部氏がどうして
沼地や湖の近くまでやってきているのか?
蘇我氏の干拓、開墾事業を考える前に、物部氏の謎が私の前にたちふさがった。

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●物部神道と古代奈良湖には深い関係があった!

物部氏については、歴史作家の関裕二氏の『消された王権―物部氏の謎』(PHP研究所刊)や、『天皇と鬼』(前掲)などを読んだ。また山の辺の道を歩いて、物部神道の祭祀跡と思われる「神籬」(ひもろぎ 後述)跡なども見た。だが、どうして奈良盆地の東端に拠点を置いたのか、決定的な理由については長考を要した。

以下、私の結論を一気に書く。

古代奈良湖の湖畔と考えられるところには、湖の岸を想像させる地名がかなり残っている。
「山の辺の道」南端にある海石榴市(つばいち)。
そこから、三輪山麓にある磯城(しき)。ここには崇神天皇が宮を置いた跡が残っている。
北上し、天理市にある石上(いそのかみ)神宮。もとは磯上だっただろう。
島の山古墳。これは前述した。
そして、蘇我氏の発祥地といわれる、真菅(ますが 橿原市曽我町 近鉄南大阪線「真菅駅」がある)

客野宮治(きゃくのみやじ)著『蘇我氏の研究』(文芸社 最新刊)には次のようにある。
以下引用する。
(引用開始)
ここは曽我川のほとりにあり、菅が自生していた。蘇我の名は、推古天皇の「真菅や蘇我の子らは」の歌からわかるように菅に由来しているらしい。菅は、汚濁を浄化するため神聖な植物とされ、様々な祭具に使用された。笠縫氏が大嘗祭(だいじょうさい おおにえのまつり)の菅御笠を作る材料にもなっている。蘇我の氏名(うじな)も菅にちなんでつけられたとする説が現在有力である。  (p40)

(引用終わり)

田中進二郎です。このことからも大王家や有力氏族は湖畔や沼沢地を囲むように拠点を置いていたことが分かる。

その中でも、物部氏と葛城氏(かつらぎ)はいちはやく奈良盆地に入って、土着の縄文人たちと融和していた、と考えられている。関裕二氏は、すでに尾張(愛知県西部)を中心に東国から縄文系の人々が初瀬川の流れにそった道から奈良に入っていた。物部氏はこの人々と共存していた、と述べている。だから記紀に登場するナガスネヒコと饒速日(ニギハヤヒ)は東国の首長と物部氏を指しているのだ、と。(前掲書『天皇と鬼』より)

物部氏は「出雲のたたら」で知られる製鉄集団だった。それが、葦や菅の生い茂る「山の辺の道」に拠点をおいたのは、鈴―錫(すず)の生産と密接につながっていた。

真弓常忠著『神と祭りの世界』(1985年 朱鷺書房刊)によると、神道の祭祀に用いられる「鈴」はもともと沼沢地に生息する葦や、薦(こも)茅(かや)の根に生成する褐鉄鉱の塊であった、という。
以下『神と祭りの世界』p234~244から抜粋引用する

(引用開始)

褐鉄鉱とは、若干の吸着力を持つ「水酸化鉄の集合体の総称で、沼沢・湖沼・湿原・浅海底などで、含鉄水が空中や水中の酸素により、またバクテリアの作用により酸化、中和し、水酸化鉄として鉱泉の流路に沿って、沈殿したものである。(中略)
褐鉄鉱の団塊とは、水中に含まれている鉄分が沈殿して、さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったものである。とくに水辺の植物、葦・茅・薦などの根を、地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで、根は枯死する。が、周囲に水酸化鉄を主とした外殻ができる。内核は地下水に溶解し、外殻と分離する。
これを振ればチャラチャラと音を発するのである。
鳴石(なりわ、なりいわ)、鈴石ともいうが、太古は「スズ」と称していただろう。自然にできた鈴である。
(中略)
湿原の薦・葦・茅の根に密生する状態が「鈴なり」の原義である。
この「スズ」すなわち褐鉄鉱はそのまま製鉄の原料となった。これを破砕して、流水を利用するか、なにかの方法で夾雑物(きょうざつぶつ)を取り除き、露天たたらにいれて精錬することができた。砂鉄による磁鉄鉱に比べて、品位は低いが、初期製鉄の原料たりえたのだ。
(中略)
弥生時代の民は鉄を求めること切(せつ)であって、そのために「スズ」の生成を待ち望み、生成を促進するために呪術を行った。どうして、このようなものができるのか、古代人にとっては不思議な、しかしありがたい貴いシロモノであった。音の発するのも不思議であり、それは神霊の声と聴かれた。そこでこの模造品を作って、「スズ」のできそうな湖沼を見渡す山の中腹の傾斜地で、これを振り鳴らしては仲間の「スズ」の霊を呼び集め、あるいは地中に埋納して同類の繁殖を願った。一種の類感呪術である。それが鈴であり、鐸(さなぎ)であった。銅鐸、鉄鐸があるが、その原型は褐鉄鉱の団塊であったのである。

(引用終わり)

田中進二郎です。もはや、多弁は不要だろう。物部氏の呪術-物部神道はこのようにしてうまれたのである。ここから多くのことが導きだされるであろう。
最後にもう一度、「古代奈良湖推定図」を見ていただきたい。
地図中の銅鐸に似たマークを探してみてほしい。いずれも湖岸に近い、山の傾斜地につくられている。ここで物部氏らが「スズ」を鳴らす儀式をとり行っていたのだ。

(古代奈良湖の存在と大和王権-その2 おわり)
田中進二郎拝