[1778]「古代奈良湖」の存在と大和王権

田中進二郎 投稿日:2015/04/29 23:34

古代奈良湖の存在と大和王権の成立(1)
田中進二郎
地図画像をとりこもうとして、失敗したようです。↓の記事を削除して下さい。
申し訳ありません。再度投稿します。

久々に投稿します。最近古代日本史に関する書籍を読んでいて、盲点になっているところをいくつか発見したので、そのことについて書かせていただきます。

古代(弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にかけて)奈良に誕生する大和王権について、調べてみるきっかけになったのは、『竹村公太郎の「地形から読み解く」日本史』(別冊宝島 最新刊)で古代には奈良盆地は巨大な湖だった、ということを知ってからだった。
(竹村公太郎氏は1945年生まれで、建設省でダム・河川事業を担当。国土交通省退官後、日本水フォーラム代表理事を務めている。竹村氏の著書はPHP研究所からも出版されている。)

竹村氏は上記の本の中で、紀元前1500年頃(縄文時代晩期)に奈良盆地に巨大な堰止湖(せきとめこ)が出現した、と指摘している。この湖が誕生したメカニズムとは、奈良県側から大阪府に向けて西に流れる大和川(やまとがわ)が、ちょうど県境の「亀の瀬(かめのせ)」
というところで発生した大きな地すべりによって、大和川の流れが遮断された。そして上流の水が滞り、奈良盆地が水没したということである。

http://tatsuo-k.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html?m=1
・奈良湖推定図

(↑のブログ記事に古代奈良湖の推定図と解説があります。竹村氏の説とほぼ同じであるので、抜粋引用させていただく)
(引用開始)
(1) 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。

(2) また、古代の山辺の道(やまのべのみち)がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道(かみつみち なかつみち しもつみち)より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。

(3) 万葉集巻の一の第二歌に舒明天皇(じょめい 在位628~641年)御製の歌がある。
「大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安(はにやす)の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池も見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。

(田中進二郎 注 ここで「埴安の池」のことを舒明天皇が「海原」と詠んだ、と最初に言い出したのは江戸時代の神道家の本居宣長である。宣長は天の香久山を訪れた際に、ふもとにあった古池が「海原」だろう、とおかしな解釈をした。以来万葉研究家たちはこのしょぼい解釈を踏襲し続けている。岩波文庫の「万葉集」も、「池」のことだと注釈をいれている。くだらん。
このことに疑義を呈したのは、歴史家の樋口清之(1909~1997)である。1989年に『大和の海原』(千曲秀版社刊)で、古代大和に湖(大和盆地湖)が存在したことの証言として、舒明天皇の国見の歌を解釈した。1989年に『大和の海原』(千曲秀版社刊)で、古代大和に湖(大和盆地湖)が存在したことの証言として、舒明天皇の国見の歌を解釈した。さらに、故・吉本隆明氏も『ハイ・イメージ論Ⅰ』(筑摩書房1989年刊)の中で、樋口清之氏の説を援護した。ランドサット撮影の写真から、一万年前からの奈良盆地の地形の変遷を論じ、縄文時代の遺跡は標高70メートル以上の高地に位置し、弥生時代の遺跡はいずれも標高50メートル以上の高地にある、と論じた。現在、縄文時代の遺跡は標高45メートル、弥生時代の集落跡は標高40mの地点でも見つかっているので、吉本氏や樋口氏の説がそのまま最新の考古学の事実ではない。だが、古代奈良湖の存在を最初に指摘した点で先駆者であった。なお奈良盆地一帯の標高は25mである。
田中注終わり。引用続けます。)
(4) 斑鳩(いかるが)の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。(中略)
(引用を続けます。田中)

(奈良湖推定図。↑のブログ記事にあります。)
(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。これも↑の記事中にあります。)
高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。
(引用おわり)

田中進二郎です。長大な引用になり申し訳ありません。以上のブログ記事と、先に挙げた竹村公太郎氏の説はほとんど同じです。上の地図は『地形から読み解く日本史』にも載っています。

竹村氏は、「亀の瀬」という地峡で生じた地すべりは、昨年(2014年)8月に広島市北部で起こった集中豪雨、それによる土砂災害のときのように大きなものだっただろう、と述べています。

そこで私田中は、大和川が堰き止められた「亀の瀬」と奈良盆地に点在する古墳群
に見学に行った。南北に生駒(いこま)山地と金剛山地が走るそのはざまに、わずかに山の切れ目がある。そこを緩やかにカーブしながら、大和川が西に流れている。この奈良盆地からの大和川の出口が「亀の瀬」である。
ここは20世紀だけでも、4度も地すべりを起こしている土地で「亀の瀬地すべり資料館」という施設もあった。排水のための隧道が何本も掘られていた。さらに土壌に深く、鋼管を埋め込むことで、もろい土壌が崩れるのを防いでいる。こうした工事により1967年以降は地すべりが起きていない。
過去に生じた土砂崩れでできた崖の上に立って、大和川を眼下に見ると、ここでかつて川をせき止めるほど土砂が流出したことも納得がいく。そして、このせき止められた奈良湖の水を、古代大和の王族、氏族が開削工事によって排水したのだろう、ということも。

またここは龍田(たつた)地峡とも呼ばれ、龍田道(たつたみち)という陸路も川に併走していた。飛鳥時代(6~7世紀)には難波(なにわ―現在の大阪市)に着いた船は陸路でも、水運でも大和に入ることができたという。龍田道は法隆寺のある斑鳩を経由して、そこから斜行する「筋違い道」で都が置かれた飛鳥まで続いていた。
このころには既に、排水によって「古代奈良湖」はかなり縮小して、陸地となった地帯には
官道や田畑が作られていたのであろう。
だが、斑鳩の南あたりは最後まで湖が残っていたようだ。馬と船を併用して飛鳥まで移動したのだろう。

↑の地図の二枚目にある、法隆寺の南に位置している、大塚山古墳群(5世紀後半の築造とされる)から、馬見(うまみ)古墳群に含まれるナガレ山古墳、新木山(にきやま)古墳(5世紀はじめの築造とされる)も南北に歩いて縦断してみた。

大塚山古墳は被葬者不明だが、有力豪族の墓だとされている。馬見山古墳群と島の山古墳の違いは、大塚山古墳が平地のところから周濠をめぐらし、段丘を人工的に形成していることだ(三段築成)。
古墳の頂きに上ると、明治天皇の野立て所の碑が立っていた。1908年(明治41年)にここで陸軍の大演習が行われた。そのときに、明治天皇がここで演習の指揮を執った、という。
だからこのあたりは今から百年前は、かなり広い平地だった、と想像できる。ついでながら、1907年に陸軍は19師団に増強されている。そのため、この演習が必要とされたのだろう。

この大塚山古墳を見て分かることは、5世紀に奈良湖が急速に縮小していること。湖に代わり大和川が東西を結ぶ大動脈として、姿を現してきていることである。川の水利と水運を取り仕切っていた豪族が、この古墳を築かせたのであろう。

大塚山古墳とは異なり、馬見山古墳群は現在丘陵地帯になっている。ナガレ山古墳、乙女
山古墳などが高地を利用したように築かれている。ここは南北に細長い半島のようになっていたと考えられている。大阪平野にある上町台地が、古代には難波潟と河内湖(どちらも海)に突き出た半島になっていたのとそっくりだ。島の山古墳はその名の通り、湖に浮かぶ島だった(標高49メートル)。きっとランドマークになっていただろう。

古代奈良湖が消滅していった理由とは、上でも述べたが、龍田地峡の人工的な開削で湖水を、「亀の瀬」から排水したためだ、と考えられる。
航空写真で大和川を見ると、「亀の瀬」あたりの緩やかなカーブがうまく出来過ぎていて、自然に作られたものだとは思えない。
(航空写真http://enkieden.exblog.jp/19132670/「播磨国と大和国の製鉄」より)

地すべりによって、埋まってしまった河道を大規模な開削工事によって、水が流れるようにしたのだろう。このような土木工事には、渡来系の土木技術者のみならず、強い指導者、多数の労働者が必要だったに違いない。この工事は弥生時代には始まっていた可能性がある。そして、湖の水をこの「亀の瀬」で調節しながら、稲作に必要な水は確保して、干上がらせた土地は新たに開墾していった。こうして「大和は国のまほろば」といわれるような豊かな稲作地帯ができていった。簡単にいうと、奈良盆地は計画的に作られていった土地なのだ。
これが古代奈良湖説を唱える人達に共通する古代奈良の歴史観になっている。

大塚山古墳の被葬者も、この工事の指導者であったかもしれない。またこの水利工事には、渡来系の蘇我氏や、物部氏また秦氏(はたうじ)などが関わっていたことは確実だろう。
しかし、彼らの業績の多くは、乙巳の変(いっしのへん 蘇我入鹿暗殺事件をはじめとする一連の政変645年)と大化の改新(646年)後の、藤原氏の台頭とともに正史から消されていったのである。
蘇我氏をはじめとする有力氏族たちの評価は改められなければならないだろう。

田中進二郎拝