[1763]私の最新刊の 『余剰の時代』 への 書評文(ブックレビュー)を載せます。

副島隆彦 投稿日:2015/03/16 14:53

副島隆彦です。 今日は、2015年3月16日です。

 私は、今は、恒例の金融・経済本を書くことで手一杯です。弟子たちの論文を見てあげることも出来ないような苦しい状況です。  皆、人間は、自分のことばっかりで精一杯(せいいっぱい)です。 欲 の深い人間たちも、自分の事ばっかりでそれで、終わってゆく。他人のことなど構っていられない。情けないことだ。

 5月31日(日)に、私たち学問道場の定例会(自力での会員向け講演会)を開きます。 私が、思いっきり容赦なく、気になっているすべての問題を、全力で喚(わめ)き立てるようにしゃべります。 詳細は、決まりましたら発表しますから、待っていてください。

 日本株(東証平均株価)が、今日は、19300円台にまで上がっている。
 もうすぐ2万円だ。この計画的な株のつり上げには、日本国民の最後の虎の子である、厚生年金、共済年金がごっそり使われている。それから今年の分として新たに3兆円の郵貯・かんぽの資金を、突っ込む。

 日本国民の大切な、本当に生き残るための最後の資金を、こうやって、株というバクチ市場につぎ込んで、ひたすら一方方向で、「株を上げろ、上げろ、買い上げろ」 と、バカ丸出しで政府自らがやっている。狂気の沙汰だ。

 博奕(ばくち)打ち というものは、どんな種類でも、双方向性(そうほうこうせい)でなければ成り立たない。 バクチ(ギャンブル)は売りと買いの 両方 でやるのだ。 それを、極悪人の安倍晋三たちは、この双方向性の 市場の原理を無視して、買い一点張りの単線鉄道だ。 行き着いた果ては、崖から落ちるしか無い。

 「日本株を買い上げろ。買え、買え、全力で買え」とやっている。一体、そのあとどうするのだ。
「買って、買い上げて、それで、儲かるんだー」で、盲目(もうもく、めくら)になって暴走している。 

 それが、どれぐらい恐ろしいとか、こいつらは、もう脳が麻痺(まひ)しているから分からない。 そのうち回疲れて暴落がやって来たら、日本国民の 年金(4千万人の厚生年金と 他の共済年金2千万人)と、郵貯・かんぽが、本当に吹き飛ぶのだ。支給額が半分になるでは済まない。

 最後は、自分たち権力者が敗れることになる。 どうして、こんなバカなことを続けられるのだ。 大きくはアメリカに脳をやられて、元々がスパイたち及び暴力団だから、自分たち自身が 騙(だま)されている、という自覚がない。「 俺たちは、日本の権力者だ。国民を 煮て食おうが、焼いて食おうが、オレたちの勝手だ」 という 考えで動いている。 歯止めになるものは、もう無い。

 自分たちのことを、国家指導者であり、知能と人材を結集した権力者であると思い上がっている、この “大きな坊や” たちが日本を破滅に向かわせている。

「 5頭のクジラ( GPIF を始めとする共済年金基金)が、池の中でばたばたと 株式を呑み込んで、買い上げている」と NHK やテレビ朝日(報道ステーション)までが、放送したようだ。

 まだあと27兆円「株式買い上げ用」の年金資金があるそうだから、その玉(ぎょく、弾、たま)が尽きた時が、日本の終わりだ。 「汝(なんじ)の時(とき)は数(かぞ)えられたり」 である。 そのとき、日本の国家経営、国家財政 は死期を迎える。 もうこれ以上の資金はない。アメリカに吸い上げられ尽くした。  私が、5年前に、 『日米、地獄へ道づれ経済』という本を書いたときの構図だ。 私だけは、じっと今の事態の背後の真実を目撃し続ける。

 

 私は、先週、『余剰(よじょう)の時代』(ベスト新書)という本を出した。 その宣伝は、今、今日のぼやき の方でやっていますから、そちらをお読みください。「最後に余っている(余剰である)のは、人間だ。つまりあなただ」 と書いてある。

 以下に載せるのは、さっき教えられて、目についた、この拙本『余剰の時代』へのネットにあった書評文(ブックレビュー)である。 

 この書評文を下に載せます。著者である私の書き加え(加筆)をして、割り込みの形で書き加えます。

 私は、この世のことがらに、もっと達観していたい、のだが、ひとりの職人(しょくにん、アーチザン、クラフトマン)として目の前の自分の本書きの職業にのめり込むから、どうしても追い詰められる。 

 脱俗(だつぞく)と解脱(げだつ)なんか出来るものではない。 人だましの専門の職業だから、悟り済まして立派そうにしている坊主(僧侶)たちも、私が、『 隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか? 』(2012年8月刊、PHP研究所刊) で書いたとおりである。 

 私にとって、この「そもそも仏教とは何ものか? 」という本と、あと一冊、『 隠されたヨーロッパの血の歴史  ミケランジェロとメディチ家と真実』( KKベストセラーズ 2012年11月刊 ) は大事な本だ。 人類(人間)とは一体、何をして来た生き物か、を大きく知りたい人は、この2冊をそのうち必ず読んでください。そして私宛てのメールで感想や質問をください。 必ずお返事します。

 それでは、拙本『余剰の時代』への、読み捨て御免 という 書評子(しょひょうし、ブックレビューアー)の文を載せます。 文中で、私が、補足説明として加筆します。

(転載貼り付け始め)

「 読み捨て御免 」という 書評子(しょひょうし)の文

http://blog.livedoor.jp/kenzaemon/archives/50455449.html

「 余剰の時代 」  

副島 隆彦 著   ベスト新書 、KKベストセラーズ刊

 世界標準から取り残された横並びの日本人インテリ階層と一線を画する、数少ない世界基準の知識人、副島隆彦氏の新作。

 「余剰」という人類における深刻な問題をキーワードに近代ヨーロッパの思想史をわかり易く解説した本。 18世紀のヨーロッパの啓蒙思想はライプニッツ(数学者、物理学者)の主張した「この世の事象は全て合理的である。従って問題は全て解明される。現実にあるものは全て最善(さいぜん)である」というオプティミスム(楽天主義、最善説 )が 主導していた。

 この18世紀の当時の全ヨーロッパを席巻していた思想の欺瞞を見抜き、オプティミスムを痛烈に批判したのが、ヴォルテールである。ヴォルテールのの懐疑主義(スケプティシズム)に連なり、ずば抜けた経済理論を構築したのが、のちに現れたケインズである。

 ヴォルテールたちの思想の根底にあるものは、「この世はそんな甘くない」だ。

 (ここから副島隆彦加筆。18世紀の当時の数学は、必ず解(かい、答え)がある。人類は最善の状態で存在している、というものだった ) それに対して、ヴォルテールは、「すべての問題が解かれるということはない」という疑いの思想である。そしして当時のヨーロッパの民衆は、支配者、権力者、僧侶、知識階級の人間たちとは異なって、この世の苦難を生きていた。

 現在では、余剰(サープラス)の問題が起き、人類にとって余剰こそは解決不可能な最大の問題となった。

 ケインズの提唱した「有効需要(ゆうこうじゅよう)の原理」は、自分の先生の経済学者たちが唱えた 「市場は放っておけば神の見えざる手により最善( 副島隆彦加筆。 optimum オプティマム)を実現する 」を否定した。 ケインズは、人々の消費(需要)が大事である、という考えだ。

 カネを十分に供給しさえすれば景気は良くなるという、現在の主流派であるサプライサイダー(新古典派)とは、ケインズの考えは対極の思想である。 ケインズは剰余価値説を唱えるマルクスの経済学さえも否定した。

(副島隆彦注記。マルクス主義が唱えた、労働価値説から生まれた剰余価値=じょうよかち=の理論でさえ市場原理主義の一種だとケインズは喝破した。)

 ヨーロッパの近代政治思想の巨大な対立軸として ① 自然法 と ② 自然権 の 考え方がある。
① 自然法(ナチュラル・ラー)は、天(てん)の掟(おきて)あるいは 自然の法則に従い、人間は、無理や無駄なことはせず穏やかに生きるべきだ という、思想であり、これは永遠の保守思想である。

 ( 副島隆彦注記。それに対して、ジョン・ロックが作った)② 自然権(ナチュラル・ライツ)の思想は、人間は誰でも自分の力で生きてゆく権利を持っている、とする。 ( 副島隆彦注記。 これを、inalienable rights インエイリアナブル・ライツ、誰も奪うことの出来ない生得=せいとく=の固有=こゆう=の権利 という。

これは、 安倍晋三たちが、「尖閣諸島は、日本の固有の領土だ 」の あの、「固有」の使い方とはちがう。、安倍たちは、欧米人の多くからは、ジョン・ロックのインエイリアナブル・ライツ を何も知らないのだ、ということで、ひどく嫌われる。人類の近代=モダーン=というものを何もわかっていない、知能の低い東アジア土人にしか見られない。副島隆彦注記おわり  ) 

 人間は、自力で生きることができる、というの自然権(ナチュラル・ライツ) 持つという思想である。 

( 副島隆彦割り込み加筆。この ジョン・ロックの ② 自然権(ナチュラル・ライツ)から、のちに、③ヒューマンライツ(人権派、モダン・リベラル)派が派生した。 多くの人が、崇(あが)め奉(たてまつ)る人権(ヒューマン・ライツ)がここから生まれた。②の自然権と ③の 人権 は全く違う。この区別が、日本人には、なかなか分からない。欧米人と 本気で話したことがある人たちだけが、この区別に行き当たる。 

  ② と③ の 区別を、日本の知識階級のほぼ全員がいまだに知らない。 そして、それ以前に、①の自然法 natural law ナチュラル・ラー派(バーキアン、エドマンド・バーク派) と ② 自然権 ナチュラル・ライツ(ロッキアン、ジョン・ロック主義 )の 巨大な対立も日本の知識層は知らない。

 日本が誇る偉大な福沢諭吉先生は、②の自然権(ナチュラル・ライツ)の日本への唱導者だ、と考えることが出来る。

 ① ナチュラル・ラー派( 永遠の保守派、「永遠の相の下に sub-specie eternitates ズブスペキエ・エテルニタテス ‘under the sphere of eternity 」の上品だが、残酷な人々。威張り腐った貴族や、大僧正のような人たちの思想 )を、 1回微分して生まれたのが、 ② の ナチュラル・ライツ派(現実的な保守派、近代憲法体制の擁護者 )である。 そして、この ② ナチュラル・ライツ派(ロッキアン)を、さらに2回微分することで生まれた(派生した)のが、③の現代人権派(ヒューマンライツ派、 モダン・リベラル派、左翼、社会主義者たち)である。 

 そして、さらに、この ③ の人権派を 3回微分して生まれたのが、③ダッシュ である  アニマル・ライツ派( animal rights , 反体制派、新左翼、過激派、環境保護派)である。 

そして、この ①、②、③、③ダッシュ とも、、全く別の  ④として、ポジティブ・ラー ( positive law 法人定主義=ほうじんていしゅぎ= 。 法律も正義もこの地上の人間たちが自分で決める。神や自然の摂理が作るのではない ) がある。 

 この ④ を大きくは 欧米世界の知識人の間では、ベンサマイトという。ここにも いろいろと議論がある。 日本の知識人層は、いまだに、この 「ヨーロッパ思想の全体像」を形作っている5大流派の思想の区別がつかない。 それらを理解し議論する段階に到達してない。 

 この5の ベンサマイトの中の一派 が、私、副島隆彦が、長いこと唱導(しょうどう)している リバータリアン libertarian である。 

 副島隆彦の本 の相当の読み手でも、私の弟子たちでも、いっかな、なかなかのことでは、このリバータリアニズム libertarianism の理解に、行き着けない。  私たちの仲間では、藤森かよこ先生が、この、リバータリアン思想の創業者、創作者のひとりである、真に勇気のある女性思想家の アイン・ランド Ayn Rand 女史 の日本への紹介者である。 

  私、副島隆彦は、これら ①、②、③、③ダッシュ、 ④ の 大きな思想見取り図を、 1995年に発表した。それを、『世界覇権国アメリカを動かす政治家と思想家たち』(講談社の文庫、2001年)に出した。今年中には、何とか、この 講談社からの この 私の主著を、上製本にして増補、改定版として 出そうと思っている。

 これらの 5つ大きな思想流派を、分かることが、現在(現代)の 欧米の知識層の人々と、私たち日本の読書人階級が 話をする(できる)ときの、最低限度の基礎知識だ。 この大きな「ヨーロッパ政治思想(法思想でもある)の全体像」が、分からないのであれば、日本人の知識層は、東アジアの土人、原住民のままである。 

 そのように、私、副島隆彦は断言する。 もう20年間、そのように断言してきた。 あー、あー。あー、 もう疲れたよ。・・・・ それでも、私は、日本国民を自分が死ぬまで啓蒙(けいもう)し説得し続けるぞ。 私の加筆も、もう、これぐらいでいいか。)

  ② のナチュラル・ライツから派生して生まれた、即ち、2回目の微分をして生まれた、③であるヒューマン・ライツ(人権派) の思想で、貧困者も生き延びる当然の権利があるとされ、政府は国民の面倒を見る義務があるとする。

 そのために 今の国家、政府は、あれこれの各種の福祉を行う。警察や軍事公務員(自衛隊員)までが、福祉国家の要員だ、という言い方までするようになった。  そして、そのためには税金が必要である、という考え方になる。そしてこの税金によって富の再配分を行うという思考に、公務員と官僚(上級公務員)たちがなっている。今は、「公共インフラの利用者として、あなたも税金を納めなさい」と 柔らかく言うようだ。 

 (副島隆彦加筆。 この税金による福祉という考えは、役人どもの考えである。 あの人間の絶対的な平等主義を
説いたジャン・ジャック・ルソーが、「人は生まれながらに普遍の意思(ボロンテ・ジェネラール)が備わっていて、だから、生まれた時にこの普遍意思によって、国家と契約を結んだのだから、だから、納税と兵役の義務を負うのである」とした。

 このルソーの絶対平等主義が、福祉国家論 の生みの親だ。 この徹底した平等主義のために フランス革命という暴力革命も辞さかった。 この過激な人権思想は、フランス革命を主導したジャコバン党のロベスピエールたちの指導理念であった。

 青年軍人だったナポレオンもこのジャコバン・クラブに出入りしていた。だから、ルソー主義者であったナポレオンも 本当は、過激派である。現在の ③ダッシュ = アニマル・ライツ 、過激派に近い人間だったのだろう )

 イギリス思想からすこし離れて、ヨーロッパの思想界で、約100年間に渡って支配したと言ってよい(数学、物理学が全能で万能だった)のがライプニッツの 「全ての問題は解決する。すべてのことは最善(オプチマム)の状態として有る」 という 思想 からルソーへ、さらに全体主義(ファシズム)へと、過激になっていったのである。 著者(副島隆彦)は、ヨーロッパの全体主義、ファシズムの生みの親が、ルソーの過激なヒューマンライツ思想にあるとしている。 

 税金によって平等社会をつくるという狡猾な思想は、国家の寄生虫(パラサイト)として公務員たる官僚機構が強化されることになり、これこそはまさしく中間搾取(ちゅうかんさくしゅ、 intermediate exploitation インターミーディエット・イクスプロイテイション)以外の何ものでもない。

 そして、このルソーの思想のおかしさを真っ先に見抜いた、ヴォルテール、そしてニーチェ、ケインズ が現代の私たち人類(人間)の生き苦しさを打開する指針を与えてくれる。

 これらのヨーロッパ思想の全体像の中には、リバータリアンという思想がある。著者(副島隆彦)は自らこの思想に属し、著者の他の著書でも多く取り上げられており、本書でも第3章で解説がなされている。

 ( 副島隆彦加筆。  ④のリバータリアンは、だから、反(はん)税金、反(はん)過剰福祉、反(はん)国家、反(はん)官僚制、そして、反(はん)海外侵略 の思想である) この ④のリバータリアニズムは、国家や政府をあてにせず、自分の身は自分で守る、他者からの過剰な干渉を拒否する、独立独歩で生きていくという思想である。

 (副島隆彦加筆。 だから、リバータリアンは、日雇い労働者=今の非正規雇用者 でいい、という思想だ。仕事があれば何でもする。どこにでも行く。組織や団体や、会社に屈従しない。奴隷にならない、という勇者の思想だ。

 アメリカのリバータリアンたちの一部は、猟銃で自衛武装している。外国の核兵器攻撃に対しても、「攻めてくるなら、来い。このアメリカの大地で、私の猟銃で戦う」という思想だ。だから、アメリカが悪賢く、世界中を支配する、海外侵略の思想 = グローバリスト ( globalist 地球支配主義者、グローバリズム)に反対する。 このグローバリズムの簡潔で正しい理解も出来ないまま、洗脳され尽くしているのが、フヌケの日本人だ ) 

 厳しい現実社会を、いかに生き延びるか、サバイバルの思想でもある。そこには、綺麗事も理想主義もない。
 
 著者(副島隆彦)は語る 《いまは老人福祉のやり過ぎである。老人ばかり大事にし過ぎた。若者たちのほうがかわいそうだ。若者に職がない問題というのは非常に深刻で、これは 政治の失敗 とはっきり言い切れる。

 世の中、すなわち社会体制そのものが ズルいのだ。コネで公務員、大企業、特殊法人に就職している人はものすごい数でいる。 ”就活”をやらないといけない人たちというのは、本当の意味で特権に恵まれない人たちだ。それと地方出身者はコネがない。》

《「注意しなさい、用心しなさい、警戒しなさい、疑いなさい」 何事に対しても用心、警戒、注意、疑い。これしかないのだ。》(P178~181)

 著者の若者に対する切実なアドバイスである。世の中は甘くはない。騙し、詐欺、裏切り、困難の連続である。若者にとっては特にそうだ。 

(副島隆彦加筆。 特に、地方出身者で、都会で、何とか何とか勤めて生きている若い人たちがそうだ。本当は、誰からも守られていないのだ。そういう貧しい地方出身者の若者のひとりだった、自分を振り返って、私、副島隆彦は、本当に彼らのことを心配に思う。 )

 国家の与える教育(学校教育、公教育)も 洗脳なのである。 何事も自分の頭で考えなければならない。そして自分自身の考えさえも、「本当にこれで良いのか」と何度も何度も己(おのれ)に問いかけ反芻(はんすう)するという厳しい思考訓練が必要である。
 
「余剰」という問題を語ると、「人間の余剰」という問題に行き着く。人類は「人間の余剰」を 戦争経済(ウォー・エコノミー)で乗り越えてきたらしい。 人類は、大体80年周期で戦争をしている。 日本も敗戦後70年を迎えた。そろそろ何が起こっても不思議ではない。

  ヨーロッパ思想史を学ぶためにも、この本は簡潔かつ深く書かれており絶好の教科書である。しかし、「余剰」というテーマとの格闘は予言者の域に達した著者をもってしても困難であったのであろう、著者の苦闘の痕跡が感じられる作品であった。

 (副島隆彦加筆。当たり前だ。この本には、とても書けなかったが、あなたは、この世の余り物です、と言われたら、そのあと、その人はどうするのか。死ぬしかなくなるではないか。、というわけにはゆかない。だから、何があっても、生き延びろ、と書いた。) 

 著者の多くの作品群の中でも指折りの作品である。若者は本書を読み、思索を深めて、今の不条理な(副島隆彦注記。私は、不条理という フヌケなコトバは使わない。不合理=irrational イラッショナル でいい) 時代を生き抜く知恵を身につけてほしい。(了) 

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝