[1752]天武天皇に正統性

守谷健二 投稿日:2015/02/16 14:12

  朝鮮半島の戦乱と「壬申の乱」
 
 西暦663年八月の「白村江の戦」での倭国軍の惨敗で朝鮮半島の戦乱が終わったのではない。高句麗が依然健在であった。国境を接する高句麗討伐が唐の目的であった。668年九月の高句麗滅亡まで唐と新羅は協力して高句麗討伐に当たっていたが、新羅内部に唐に対する不信感が芽生えていた。何故なら、百済王朝滅亡後、百済旧都に唐の都督を置き、その役人に百済王族を採用し、新羅の発展に対抗させ、高句麗討伐後、半島を唐の一元支配に置くことを目指していた。対高句麗戦争に於いても、激戦地には集中的に新羅軍を配置させ、あたかも新羅王朝が疲弊困憊するのを待っているかのようであった。
 668年九月、高句麗が滅亡するや、忽ちに唐と新羅の対立が顕になったのである。唐と新羅は、全面戦争になった。
 天智十年(671年)十一月、唐の役人・郭務宋が二千の軍勢を率いて四度目の来日を遂げている。『日本書紀』のこの記事で注目すべきは、郭務宗が予め対馬国司に使いを派遣し、今回の来日は、軍勢を多く率いているが、戦いの為のものではないと、伝えて来たことである。この来日に長安に拘留されていた倭国王を帯同していた。倭国王の送還であった。唐は、倭国との講和を望んでいた事は明らかである。
 半島では、高句麗残党も新羅に協力し、唐軍は窮地に立たされていた。それに長年に亘る朝鮮半島出兵で、唐国内では厭戦気分が蔓延していた。唐は窮余の策として、倭王朝に再度の新羅討伐軍の派兵を要請して来たのではないか。しかし、すでに倭王朝は日本国(近畿大和王朝)臣下に為っていたのである。唐の要請を近江朝に丸投げせざるを得なかったのである。この九月、天智天皇は病に倒れ、十二月三日に崩御なされた。近江朝も大変な時であった。
 郭務宋は、翌年五月末日まで滞在している。この五月初頭に、近江朝は美濃、尾張国で百姓の徴集を開始している。『日本書紀』は、天智天皇の山陵を築く為と記すが、徴集された百姓に武器を取らせていたとも記す。またこの徴集された百姓のシンボルカラーが赤色であった。赤色が唐のシンボルカラーであることは、当時の東アジアでは常識であった。唐以外で、赤色をシンボリに使うなど許されることではなかった。
 百済滅亡にともない多くの百済人が難民となって日本に辿り着いていた。天智天皇は、彼らに琵琶湖東岸から美濃、尾張にかけて土地を与え開墾、自活を促していた。美濃、尾張国には、多くの百済人が居たのである。近江朝は、彼らを中核に軍を編成して、筑紫から半島に送る決断をしたのでは無かったか。この百姓徴集を知った時、大海人皇子(天武天皇)は「壬申の乱」の蜂起を決断した、と『日本書紀』は伝える。倭国と百済は、協力して唐・新羅と戦った仲間であった。