[1749]天武天皇の正統性

守谷健二 投稿日:2015/02/09 10:16

  柿本人麻呂の立ち位置

 天武天皇の正統性を主張する史料は『日本書紀』『古事記』『万葉集』の三点である。『万葉集』で天武天皇の即位の正統性を主張し、神の子孫である皇統の日本統治の正統性を高らかに歌い上げている。「大君は神にし座(ま)せば」のフレーズは人麻呂に始まる。つまり天皇の神聖は、人麻呂が創り上げたと云うことが出来るのだ。
 注目すべきは、人麻呂の作歌の方が『日本書紀』『古事記』に先行していることである。私は「壬申の乱」と言うのは、倭国(筑紫王朝)の大皇弟であった大海人皇子(天武天皇)の近畿大和王朝(日本国)乗っ取り(横奪)事件であったことを明らかにしてきた。天武の即位には正統性がなかった。「壬申の乱」は不義の戦であった。
 故に天武天皇は、何よりも正統性を欲したのである。天武による歴史編纂の詔は、自身の正統性を創造するためのものであった。『古事記』序文が云う「偽りを削り、実(まこと)を定め」ではなく「実を削り、偽りを定め」る行為であった。『万葉集』の人麻呂の歌が『日本書紀』『古事記』に先行していることは、何を意味するのだろう。歴史編纂は、天武朝の最重要事業であった。天武天皇に正統性を与えることは最優先課題であった。その課題に誰よりも早く応えていたのが柿本人麻呂であった。
 通説では、人麻呂を下級官吏で石見国の鴨山で、人知れず亡くなったと云う。しかし、そんなバカなことがあるものか、天武天皇に正統性を与えることが最重要課題であったのだ。人麻呂は、その課題に率先して応えていた。下級官吏などであったはずがない。歴史編纂の中心にいたのである。人麻呂は、ありのままの歴史を謳ったのではない。人麻呂が歌った故に、それは神話になり、歴史になったのだ。
 人麻呂の歌で一番重要な歌は、199番の高市皇子(天武天皇の長男)に奉げた挽歌である。この歌は『万葉集』で最も長大な歌で日本の詩歌の最高峰と讃えられている。人麻呂は、この歌で天武の決起の正統性を歌い上げている。またこの歌で注意すべきは「壬申の乱」の指揮も、その後の天武天皇・持統天皇の代で実際に政権を執ったのを高市皇子であった、と歌い上げていることである。
 日本の天皇は、この時から神聖を与えられ、君臨すれど統治せずであった。人麻呂は正統性の創造者(クリエーター・オブ・レジテマシー)である。下級の地方官吏や流罪人であったはがない。政権の中枢にいた人物である。実際の主宰者であった高市皇子の片腕であった人物だ。
 『古今和歌集』の「仮名序」は次のように記す。

 ・・・いにしへよりかく伝はるうちにも、奈良の御時よりぞ広まりける。かの御代や、歌の心を知ろしめしたりけむ。かの御時に、正三位なむ、歌の聖なりける。これは、君も人も身をあわせたりといふなるべし。・・・

 仮名序のこの部分が長年研究者を悩ませてきた。何故なら『万葉集』の中では、人麻呂は奈良遷都以前に石見国で死んでいることになっている。それなのに『古今和歌集』は、奈良遷都後も人麻呂は生きており正三位の人物であった、と云うのだ。正三位は大納言の官位である。平安時代の末期には、この仮名序の理解が不可能になっていたらしい。その為「奈良の御時」は、文武天皇と読め、と云うのが定説になってきた。しかしそれはおかしい、文武天皇の在位は697~707年で、奈良遷都は710年である。奈良遷都の時には、文武天皇は亡くなっていた。
 ではどのように考えれば良いのだろう。「古今和歌集」が編纂された905年頃まで、柿本人麻呂の正体を伝える秘伝、口伝が生きていたのではないか。秘伝、口伝などは、文字化されると滅びると言われている。人麻呂の正体を伝える秘伝も、『古今和歌集』の仮名序に書かれることで滅んだのではないか。
 人麻呂が地方の下級官吏や流罪人であったはずがない。政権の中枢にいた、実際の政権の主宰者であった高市皇子の片腕であった人物である。天武天皇の正統性の創造主であった。