[1731]思想対立が起こした福島事故[第1章終わりの②]
みなさんこんにちは。相田です。
今回で素粒子論グループ編を終わり、こちらへの投稿も一段落とさせてください。
これまで物理に関する話を続けてきましたが、私は本格的に物理を勉強したことなどなく、自己流で参考書をつまみ食いしたレベルです。私の話を物理の専門家が見ると「こいつわかってないな」と、たちどころにバレると思います。
本論考の狙いは物理の薀蓄(うんちく)をつづるのではなく、福島原発事故の起こった背景を明らかにすることなのですが、第1章では主な登場人物紹介の段階で終わってしまいました。島村武久(しまむらたけひさ)氏や中島篤之助(なかじまとくのすけ)氏などの未登場の重要人物もいますが、第2、3章で触れる予定です。
第1章では武谷三男を中心に説明しましたが、第2章の内容は伏見康治を軸に話を進めます。本論考の核心となる第3章もある著名な物理学者が主役となります。この人物の晩年の提言をまじめに取り上げなかったことが、福島事故につながったと私は思っており、ここを書き終えるまでは続けるつもりです。
ここでの話に興味を持って読んで頂いた方々に感謝します。
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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」
第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之(続き)
筑波大学開学時の初代学長には三輪知雄(1973-76)が就任し、宮島龍興(1976-80)が後を継いだ。建学の最大功労者である福田は強烈な個性が災いして、当初は学長就任を控えていたが、実質的な「影の学長」として学内を掌握したようである。筑波へのキャンパス移転の成果を認められた福田は、当時の自民党幹事長の中曽根の政策ブレーンの一人に抜擢されて、政治的な活動も強めていった。
筑波大開学当初の福田の様子については、ソフトウェア研究者の今野浩(こんのひろし)氏の著作「工学部ヒラノ助教授の敗戦」(青土社、2013年)の記載中で垣間見える。本著作は「世界最大規模のソフトウェア中心の計算機科学科を作る」という触れ込みで、新生筑波大学に助教授として招かれたヒラノ氏(=今野氏)が、その構想の仕掛け人である福田に最初に挨拶に出向く場面から始まる。約束時間から30分以上遅れて現れた福田は、その場でおもむろに電話を掛けて「中曽根君」と呼びかけながら幹事長と話し込んだという。電話を掛ける前に福田は、ヒラノ氏と彼の新たな同僚に辞令を無造作に渡しながら、「何があっても赤旗だけはふらないでくれよ」と釘をさしたそうである。その後に展開されるドラマについては、今野氏の著作をご参照されたい。
1980-86年には福田自らが筑波大の学長を務め、筑波大発足から合わせて13年に亘って権力を振るうこととなる。その間の筑波大では、左翼活動を行う学生は即刻退学させられる一方で、統一教会系のカルトサークルが公認されて、活発に活動していたという。1984年に筑波大学で開催された「科学技術と精神世界」と題する日仏協力国際シンポジウムは、統一協会の庇護を受けたイベントであり、多数のオカルト系の発表講演が国立大学内の会場を借りて堂々と行われるという、信じ難い状況が繰り広げられたらしい。さすがに当時の反省から、近年の筑波大学では福田色を一掃するような対応が取られているそうである。
ここまでの話では原子力について全く触れていないのだが、実は福田は日本の原子力開発にも大きな影響を与えている節がある。1974年4月に原子力委員会の常勤委員として、東京教育大学長を勤め上げたばかりの宮島龍興が就任した。原子力委員会とは、日本の原子力政策の基本方針を決めるための(名目上の)最高機関とされている組織である。原子力委員会設立の詳細については、本論考の第2章で説明する予定である。宮島を原子力委員に推薦したのは、当時の科学技術庁長官で原子力委員長を兼任する衆議院議員の森山欣司(もりやまきんじ)である。(当時の原子力委員長は科学技術庁長官が兼任していた)
科学技術長官時代の森山は、それまでの長官が青森県民の猛反対を受けて結論を先送りしていた、「原子力船むつ」の試験航海を強行した張本人であり、その途中で「むつ」に放射線漏れのトラブルが起きたことから、大きな非難を浴びることとなった。さて、森山が科技庁長官に就く前の原子力委員会においては、委員の任命・交代の場合には、事前に他の委員全員の了解を得た上で発表する不文律があった。しかし森山はこの慣習を破り、宮島の委員就任を独断で決定し、このことが波紋を呼ぶことになる。
この森山による宮島の原子力委員就任の決定に対して、原子力委員(非常勤)の一人で立教大学の物理学の教授である田島英三(たじまえいぞう)が異議を唱えた。田島はかねてより、原子力委員会に安全研究の専門家が不在であることに懸念を表明しており、次回の委員交代の際には安全担当の専門家を招くべきと主張していた。しかし森山は田島の要望を排し、原子力推進派とみなされていた宮島を独断で新たな委員に任命した。結局、田島は森山に抗議して原子力委員を辞任するが、この問題は当時のマスコミに大きく取り上げられた。
その後に「むつ」の放射線漏れ事件が起こった際には、その田島本人が青森まで招聘されて「むつ」に乗り込み、事態の収拾を行うことになる。このあたりの経緯の詳細は、田島の自叙伝の「ある物理学者の生涯」(新人物往来社刊、1995年)に描かれているので御参照されたい。余談になるが田島は、立教大に移る前は理研の仁科グループに在籍しており、長岡半太郎の実子で後の日本原子力研究所副理事長に就任する嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)の指導の下で、サイクロトロンによる原子核実験を担当していた。
田島は、終戦後の米軍によるサイクロトロン破壊にも直接立ち会っており、田島の自叙伝にはその際の詳細な状況が記されている。戦後になって田島が理研から立教大学に移る際には、武谷三男も理論物理学の教授として立教大に招かれている。武谷にとってこれが、最初で最後の大学へのパーマネントな「就職」であった。
話を福田に戻すと、教育大移転闘争の経緯を考えると、森山に宮島の原子力委員就任を推薦したのは、おそらく福田であろうと私は考える。宮島自身は非常に線の細い性格であったとされており、このようなトラブルの中に率先して飛び込めるような人物とは私には思えない。原子力委員時代の宮島にはさらに面白いエピソードがある。宮島は1974年にロンドンで開かれた「科学の統一に関する国際会議」というイベントに、原子力委員の肩書きで参加したが、この会議の主催者は統一教会であり、文鮮明による挨拶も行われたという。
1978年6月5日の国会の科学技術振興対策特別委員会において、森山の次に科学技術庁長官を務めた熊谷大三郎(くまがやだいざぶろう)が、共産党の市川正一(いちかわしょういち)議員から、原子力委員としての宮島の行いに関して厳しく追及された。私はこの話を、SNSIの中田安彦氏がジャパンハンドラーズのブログの中で取り上げた記事を読むことで、初めて知った。宮島を統一教会のイベントに参加させるために、ロンドンまで連れ出した黒幕は、どう考えても福田であるとしか思えない。
同じ国会の議論において市川議員は、当時の日本原子力研究所理事長であった宗像英二(むなかたえいじ)が、統一教会の下部組織である世界平和教授アカデミーの機関紙「季刊アカデミー」に寄稿した事実についても追及した。福田はこの世界平和教授アカデミーの有力メンバーの一人でもあった。
このような一連の話から70年代以降に、原子力委員会や原研幹部等の原子力関係者の間に、反共を掲げる統一教会系の人物達が集まりつつあり、その裏で糸を引いていたのが福田ではないかと、私は疑っている。森山欣司、宗像英二の二人については、本論考の重要人物でもあり、後半に再び取り上げる。
勝共連合や原理研究会(CARP)のサイトを眺めてみるとわかるが、彼らのサイトのほとんどには、原子力についての肯定的なコメント(軽水炉再稼働の即時実施、核燃料サイクルの堅持、etc)が書かれている。その内容には、相当に専門的な処まで理解していなければ、書けないような記述も多い。彼等の意見ははっきり言って、私が本論考で述べる考えにかなり近く、彼等のコメントを読む限りでは大変結構なことだと思える。しかしながら私は、「あんた達はその話を一体誰に聞いたのだ?」と、思わず突っ込みたくなる。どうせ福田から聞いたのだろう。
右翼評論家として名高い渡部昇一(わたなべしょういち)は、統一教会とも関係が深い人物といわれているが、以前に福田信之から「渡部君、この高速増殖炉(もんじゅのこと)という技術が完成したら日本は、500年-1000年という単位でエネルギー問題から開放されるんだよ」という話を聞いたそうである。最近の渡部は、あちこちのセミナー等に出かけて行って、原発の早期の再稼働と核燃料サイクルの継続推進を訴えているようである。はっきり言って、大変大きなお世話である。
左翼研究者達の問答無用の原発反対も困ったものであるが、右翼連中が訴えるバラ色の原発推進論も、同じ位に傍迷惑な話である。どれだけまともな内容を訴えた処で、その出発点が政治的に歪んだ理想の実現を目指したものであるならば、彼等の主張は技術を危険な方向に導くものでしかない。原子力は大変危険な技術ではあるが、それを用いることで得られる恩恵もまた大きい。原子力に向き合う際には、政治思想の思惑を排した冷静な技術判断が必須であると私は思う。
しかし本論考で述べるように、日本の原子力開発は何故か最初から、左翼と右翼の壮絶なぶつかり合いで始まってしまうのである。その後に「技術的にまっとうな方向」に修正する努力が幾度も行われたにも係らず、それらの「まっとうな努力」に対しては、左翼と右翼の両方が反対し、寄ってたかって全て潰してしまったのである。その結果引き起こされたのが、3.11福島事故である。原子力関係者連中の間にあった政治思想の対立が、福島事故の本質的原因と私は考えており、本論考で最も訴えたいのはそこである。
話を福田自身に戻す。筑波大学発足後にも強大な権力を振るい続けた福田は、宮島の後釜としての原子力委員への就任も視野に入れていた可能性があると、私は思っている。しかし「幸いにも」というべきか、そのような事態を迎えることはないまま、福田の晩年は意外な悲劇で幕を閉じることとなる。以下は今野浩氏の「工学部ヒラノ助教授の敗戦」から引用する。
―引用はじめ―
ミスター筑波大と呼ばれた福田信之教授は、6年にわたって副学長を務めたあと、学長として6年間筑波に君臨し、1980年代半ばに東京理科大の教授に迎えられた。しかしこの頃を境に、バッタリその名前を耳にすることはなくなった。反共で連帯を組んだ中曽根康弘氏が総理の座にあった80年代半ばには、もっと活躍してもおかしくなかったはずだが、何故かこの頃はすっかり過去の人になっていた。そして90年代に入ると、筑波大学を建設した功労者としてよりは”筑波の独裁者”、”文鮮明の協力者”という名前が残ったのである。
1994年の秋、ヒラノ教授は福田元学長の訃報に接した。そして週刊新潮の「墓碑銘」欄に載った記事を読んで、同氏が筑波を去ったあと間もなく、自らの意思で世間との繋がりを断ったことを知った。筑波時代の苦労が原因で、夫人が認知症になったことに責任を感じ、東京理科大の教授ポストを捨てて、老妻が住む老人ホームに住み込んで自ら介護に当たったが、75歳の誕生日を迎える直前に、心臓発作のため亡くなられたのだという。
―引用終わり―
相田です。私が本論考を纏めるに当たり、「福田信之」という人物の発見は最もインパクトを受けた「事件」であった。私は学生時代には朝永のファンであった。失礼な言い方になるが、中間子論以降にはまともな物理学の成果を発表できていない「一発屋」の湯川よりも(これは私の大きな誤解であったのだが)、最先端の数理モデルを自在に駆使して自然の本質に迫る朝永の方が、物理学者としての理想に近いように私には思えたのである。岩波新書にある朝永の著作の「物理学とは何だろうか」、「科学と人間」等は、学生時代に何回も読み返した記憶がある。
しかしながら福田信之の存在を知って以来、私の中では朝永の人物像を大きく見直さざるを得なくなってしまった。朝永がノーベル賞を受賞した1965年からの数年の間、東京教育大学では移転問題が泥沼化する一方であった。はたして朝永は、愛弟子である福田の極悪非道ともいえる一連の行いを、一体どのように考えていたのであろうか。物理学者としての業績と人間性は、分けて考えてもよいという事なのであろうか。
一方で福田自身は、自分の家族に起こった出来事を見つめ直すことで、流石に自らの行いの過ちの大きさに気づかされたのであろうか。晩年の福田は第一線から身を引いて、家族に付き添いながら静かにその生涯を終えたようである。
物理学者としての業績の頂点を極めたともいえる南部陽一郎と、物理から離れて政治の分野に執念を燃やした福田信之。若かりし時に二人は共に武谷と朝永からの薫陶を受けたにも係らず、その後の生き様は、あたかもキリストとユダのように、あまりにもかけ離れてしまっている。素粒子物理学を志す研究者の中には、このような激烈な人生に駆り立てる「何か」があるのであろうか。
(第1章おわり)
相田英男 拝