[1709]『フィレンツェ・ルネサンスは、イスラームの覇者バイバルスから見なければならない(その2)』

松村享 投稿日:2014/11/07 00:35

松村享(まつむらきょう)です。

私は現在、ルネサンス関連の論文を書いています。
論文は『隠されたヨーロッパの血の歴史~ミケランジェロとメディチ家の裏側~副島隆彦著 kkベストセラーズ』に触発されたものです。

進行中の論文の中から、
一部を抜粋、加筆して、こちらに掲載させて頂いております。

前回は、ネットワーク帝国・アッバース朝から
モンゴル帝国へと継承されたユーラシア交易圏が、
徐々に3つのルートとして収斂し、やがて縮小した、という部分まで掲載しました。

最も早く没落していったのは、中央ルートでした。
イスラームにとっては伝統の、シンドバードの海です。
しかし、バグダードなどは、モンゴルのフラグが壊滅させた地域です。
のんきに通れるような場所ではありません。
そのバグダードは、滅ぼされたのち、イル・ハーン国の地方都市に転落してしまいます。
そして1335年、フラグのイル・ハーン国もまた、早々に滅んでしまいます。

本当は中央ルートこそ、イスラーム世界にとって命脈とでもいえるルートでした。
ペルシャ湾から船を出せば、陸地に近い海を安全に航海できるからでした。
ネットワーク帝国・アッバース朝の大動脈でした。

北方の陸路も終焉します。
モンゴル帝国末期のごたごたと、ペストの流行、
オスマン帝国の拡張、ティムール帝国の拡張、というように、
いわゆるシルクロードはあまりに目まぐるしい。

中央ルートと北方ルートが終わっていく中で、
長く繁栄を極めたのが、南方ルートでした。

南方ルートは、紅海から、陸伝い不可能の大海原に飛び出します。
中央ルートに比べれば、安全性に劣る点から、第二候補であった南方ルートですが、
ここが次なる時代の最重要ルートとして繁栄するのです。

何故、繁栄が可能だったか。
ここにエジプト・マムルーク朝の王、ルクヌッディーン・バイバルス(即位1260~1277)が登場します。

南方ルートの発展、持続を基礎づけたのが、
イスラーム世界エジプト・マムルーク朝の王、バイバルスなのです。

名実ともに世界最強のモンゴル軍を、バイバルスは、現在のパレスチナで蹴散らします。
なんとモンゴル軍戦術を会得して勝利をたぐり寄せたらしい。
古今東西、名将はいつも、最強の敵から学んで勝利します。
たしか、ハンニバルを打ち破ったローマのスキピオ・アフリカヌスも、
ハンニバルを軍事学の師匠と仰いでいたはずです。

マムルーク朝は、エジプト・シリアが拠点です。
紅海と地中海に面しています。
つまり、アブー・ルゴド氏のいう、南方ルートの支配者です。
まるで『紅海さえあれば、あとは何もいらない』とでも言いたげな版図が、
マムルーク朝の支配地域です。

南方ルートは、地中海国家と深くつながっている。
中でも、イタリアのヴェネツィアが、マムルーク朝と蜜月の関係を築きます。
有名な、水の都ヴェネツィアの背後には、巨大なマムルーク朝が存在するのです。

つまりここは、副島隆彦氏の『帝国=属国理論』の出番です。
イタリアは、帝国マムルーク朝の属国であったと、暫定的に私は判断しています。

だから、このあたりのヨーロッパ史の云々は、
常にマムルーク朝からの視点で語られなければならないのであって、
とくにイタリアにおいて、それは著しい。

そしてイタリアは、多国籍企業集団のような趣きをかもしている。
いや趣きどころか実際、完全に多国籍企業です。
フランスのブルージュなどは、イタリア多国籍企業が撤退した瞬間に、没落しました。

イタリアは、ヴェネツィアのような海洋国家が貿易を、
内陸国家が金融と工業を、
というふうに分業体制を確立していました。

金融と工業の内陸国家こそ、イタリアのフィレンツェです。
フィレンツェこそ、ルネサンスの舞台です。
しかしルネサンスはまだ、先の話だ。

バイバルスの話をしましょう。

バイバルスは、モンゴル軍と十字軍を徹底的に打倒します。
無敵の強さといっていい。
バイバルスが、世界大戦の勝者です。
不安定だったユーラシアの版図を確定させます。

現代イスラーム諸国においてバイバルスは、有名なサラディンと並ぶか、
あるいは、それ以上の英雄待遇を受けているそうです。
我々は、そろそろイスラーム史に眼を転じなければなりません。

ヨーロッパ人の良書は、たくさんあります。
しかし、何故か常にイスラームを蚊帳の外に置いている。
だから、ヨーロッパ人、アメリカ人の歴史書は本当は、
『宗教 religion』(※再編集の事。鴨川光氏によれば人定法positive law)と考えなければなりません。

疑わないといけない。
頭上さえ覆う宗教の可能性がある。
疑ってもないあの蒼い空を、
トンカチで叩き割ってみたならば、
本当は、赤い空が広がっているのかもしれません。
世の中が『正しい』といって押しつけてくる事柄が、
私は退屈でなりませんし、嫌いです。

いくつか資料を読みこんで、わかった事が一つあります。
二流の秀才ヨーロッパ人は、バイバルスが嫌いです。
マムルーク朝も嫌いです。
できる事なら触れずに済ませたい、とでも思っているかのようです。
軍人王朝だとか、専制国家だとか、ほのかに難癖をつけているようにも読めます。

しかし私には、政治体制の良し悪しは、判断できません。
神政政体が良いのか、民主政体が良いのか、という事なども判断しかねます。
なので純粋に『果たした役割』だけに着目します。

着目した結果、
マムルーク朝のバイバルスこそ、
イスラーム史のみならず、
世界史における超重要人物である、との見立てを、ここに提示します。

引用開始ーーーーー『世界に広がるイスラーム(イブン・バットゥータの世界)』p221家島彦一著 板垣雄三監修 悠思社

当時のイスラーム世界はシリア・エジプトを領有したマムルーク朝政権を主軸として、
一つの大きな政治的統合をなしていたのである。

そして、この軍事・政治・外交上の秩序は、カイロをネットワーク・センターとして
地中海からインド洋に連なる東西間の国際交通ネットワークの広がりとも一致していた。

※中略

とくに、一二八八年、スルタン=マンスール・カラーウーンは、
国際交易の振興に努力し、
東は中国の元朝、デリー・サルタナの諸王朝、スィンド、イエメンなどの支配者・有力者たちに宛てて新書を送り、
通行と滞在、商売の安全を保障した証書(スーラ・アマーン)を発布することで、
マムルーク朝を中軸とした国際交易システムの確立を目指した。

ーーーーー引用終わり

上述のスルタン・マンスール・カラーウーンの次のスルタン(王)が、
ナースィル(在位1293~94/1299~1309/1310~41)です。

このナースィルの50年間が、マムルーク朝の絶頂です。
カイロには、数多くのモスク、学院、病院、商取引所、神秘主義(スーフィズム)の道場などが建てられたといいます。

そして絶頂期のナースィルの死の直後、
1340年代から急激に景気は落下します。

(続)

松村享 拝