[1695]魏源 『海国図志』 が幕末日本の思想家を動かした(2回目)

田中進二郎 投稿日:2014/10/18 10:11

魏源 の『海国図誌』が幕末日本の思想家を動かした-その2
田中進二郎

●幕末の志士・吉田松陰は魏源の『海国図志』を誰よりも早くに読んでいた

前回は、私は、ここに 魏源(ぎげん)や林則徐ら清末知識人が、イギリスを始めとするヨーロッパ列強の侵略に対して、世界情勢の知識を紹介して、清朝の改革を訴えていたことを書いた。
(重たい掲示板 「1678」番 10/5付)

 彼らの著述は、清朝の中国人知識人たちよりも、幕末の日本人によってむさぼるように読まれたという。このことは重要なことであった。1843年に、魏源の『海国図志(かいこくずし)』が清国の揚州(南京の近くの都市)で出版されると、その翌年にはもう長崎に貿易船で運ばれてきていた、という。

 1850年には、三部が長崎にあったという。しかし幕府は『海国図志』(60巻)の内容に、キリスト教の内容が含まれていることから、禁教であるのために、この本を日本で刊行することを禁じた。こうして、最初に輸入されたものは、幕府が没収するところとなった。

 ところが、このうちの一部を平戸藩家老・葉山佐内(はやま さない、1796~1864)が入手したのである。
葉山佐内は陽明学者・佐藤一斎(1822~1859)の門下生で、指折りの逸材といわれた。佐藤一斎の弟子の数は三千人いたといわれた。佐藤一斎は幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の教授として昌平黌を統括する立場にいた。幕府は官学として朱子学を学ばせたので、佐藤も表向きは朱子学を標榜(ひょうぼう)した。が、王陽明(おうようめい)の思想を信奉した。だから、『陽朱陰王(ようしゅいんおう)』といわれた。

 昼間は幕府の昌平黌(今の東京ののお茶の水の東京医科歯科大のある所)で、朱子学を講じて、「本邦(我が国)は、徳川家のご恩顧で太平の世が続き・・」と教えた。ところが、夜になると、自分の私塾で、顔つきが変わったようになって、目を輝かせて陽明学を教えたのだ。 

 彼の門下生に、渡辺崋山、安積艮斎(あさか ごんさい 後述)、佐久間象山、横井小楠(よこいしょうなん)らがいる。だから幕末の偉人たちの先生の先生にあたるのが、佐藤一斎である。西郷隆盛も佐藤一斎の主著の『言志四録(げんししろく)』を繰り返し読み、精神を鍛えたといわれている。西南戦争の最後で、鹿児島の城山で死ぬときまで、西郷はこの書を肌身離さず持っていたという。

 佐藤一斎の門下生たちは、非常に知識欲が強かった。だから、清(しん)国から最新の漢籍が届くと、その情報はひそかにただちに共有されたのであろう。
 葉山佐内は平戸藩の家老職にあって、魏源(ぎげん)をはじめとする漢籍を蔵していた。吉田松陰に、直接か間接にかこの情報はもたらされた、と考えられる。吉田松陰は長州藩の許しを得て、平戸に遊学した。嘉永三年(1850年)8月末のことである。松陰は下関で、同じ長州藩士の伊藤静斎(いとうせいさい)から葉山佐内への紹介状をもらっている。伊藤静斎は長府(ちょうふ)藩(下関の南の支藩)の本陣(宿場町で一番格式のある宿舎)の家柄であった。後に、坂本竜馬も下関滞在では、お龍(りょう)とともにここを常宿としていたという。

 吉田松陰はここから船で長崎に行ったあと、平戸まで徒歩で行った。悪路でへとへとになったらしい。9月14日に平戸に到着すると、その日のうちに葉山佐内の屋敷を訪れている。自分の吉田家の家学である山鹿流軍学の宗家・山鹿万介(やまがまんじょう)が平戸にいたが、そこを訪れるのは、一週間もあとになってからだ。
魏源の著作を一刻も早く読みたい、という松陰の思いがここから伝わってくる。

このときの吉田松陰の遊学の記録が『西遊(さいゆう)日記』に記されている。以下引用する。

(引用開始)

(嘉永三年 1850年)
九月十四日
・・・葉山佐内先生宅に至り拝謁し、その命に因って、紙屋という(ところ)に宿す。(王陽明の)『伝習録(でんしゅうろく)』を借りて帰り、その著(あらわ)すところの(葉山が著した)『辺備摘案(へんびてきあん)』を借り、摘案を夜間に謄写(とうしゃ)す。この夜雨ふる。

九月十五日
・・・午後、葉山(邸)に至る。野元弁左衛門(のもとべんざえもん)もまた至る。談話夜に入る。(魏源の)
『聖武記附録(せいぶきふろく)』四冊借りて帰る。

九月十六日
・・・申時(さるのとき、午後2時)、野元(邸)に至る。又葉山(邸)に至り『聖武記附録』を読む。
老師(葉山が)中に記す。「古にならえばすなわち今に通ぜず、雅を択べばすなわち俗にかなわず。」の語に至り、嘆賞(たんしょう)して欄外に標す(書き込みをなさったようだ)。他日の考索(こうさく)に易(やす)からしむ。老師陽明学を好み、深く(佐藤)一斎先生を尊信し、言(げん)(が)一斎のことに及べば、必ずその傍らに在るか(の)如し。実に敦篤謙遜(かくあつけんそん)の君子なり。

-『吉田松陰全集 第七巻「西遊日記」岩波書店刊』p107から引用 ( )内は筆者が加えた。

(引用終わり)

田中進二郎です。このように葉山佐内は、その時わずか19歳(数え年21歳)の吉田松陰を暖かく迎え入れ、かれの学問を大いに支えたのである。吉田松陰は幼少時から、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)のスパルタ教育を受けて育てられていたから、葉山佐内の人柄に接して、人間的にも成長した部分があった。

 吉田松陰は五十日に及ぶ平戸遊学の間に、魏源の『聖武記附録』以外にも、『皇朝経世文編(こうちょうけいせいぶんへん)』(1826年刊 魏源著)を読んだ、と記録している。しかし、『海国図志』を読んだ、とは松陰は『西遊日記』の中に記さなかった。当たり前である。この書物は禁書だったのだから。しかし、葉山佐内は松陰の人物を見込んで、特別に閲覧を許可したであろう。松陰は、葉山に懇願し、葉山は、「それでは、このことは他言をしてはならぬぞ」と言って、『海国図志』を松陰に貸し出した、と考えられる。

 この年、幕府の頑迷な鎖国のやり方に公然と反論した蘭学者・高野長英(たかのちょうえい、1804~1850)は、松陰が平戸遊学をした1850年の翌月の10月に、江戸で幕府の捕吏に発見されて捕縛され、殺されている、そういう緊迫した時世だった。

 だが、多くの歴史家は、「史料に書かれていることがすべて」と考えるので、このことに踏み込まない。松蔭の『西遊日記』に明記されていないから、この時、『海国図志』を松蔭が読んだことを史実と考えない。それが、今の幕末史の歴史家の多くの姿勢である。

 これに対して、陳舜臣(ちん しゅんしん 作家、 ー )は、歴史小説『実録 アヘン戦争』(  刊)も書いた大家だからわかっている。次のように言っている。引用する。

(引用開始)

 『海国図志』が出たのは1843年ですが、その翌年にはもう長崎に入ってきています。幕府の老中が『聖武記』と『海国図志』を注文しています。偉い人がいたんですね。(筆者注:阿部正弘=あべまさひろ=のことだと思われる。1843年閏9月に 老中の座に就いている) 個人でも、平戸の家老の葉山佐内という人が注文しています。このことはみんなよく知っているわけです。『海国図志』を平戸の葉山さんが入れたぞ、というので吉田松陰が平戸まで行って読んでいるんですね。

 たまたま林則徐(りんそくじょ)という偉い人がいて、その人が非常に強い危機感を持って、自分が左遷される前に一番信頼していた魏源(ぎげん)に、それまで集めた資料を預けた。その人が徹夜を重ねて書いた本が、もちろん中国語で書いたんですが、すぐ翌年に入っている。日本に入ったばかりではない。日本で復刻されるんですね。まあ、海賊版ですが、何軒もの本屋がやってるわけですね。ですから、これをたくさんの人が読んだわけです。間違いがかなりあるわけですけれども、情報に対する熱意は日本では非常に高かった。

 引用元:陳舜臣『中国の歴史と情報』-日本記者クラブ第26回通常総会記念講演(1985年5月20日)PDF
http://www.jnpc.or.jp

(引用おわり)

田中進二郎です。付記すると、吉田松陰は安政元年(1854年)の11月以降の日記である、『野山獄(のやまごく)読書日記』に、魏源の『海国図志』を読んでいることを数回、書いている。この年には、幕府の重臣の川路聖○(ごんべんに莫の字、 かわじとしあきら)が、この本を江戸に持ち帰って蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ )らに命じて、翻訳と出版を開始させている。松陰が萩の野山獄で入手して読み直したのはこの版であろう。

だが、『野山獄読書日記』は、松陰が中間(ちゅうげん)の金子重輔(かねこじゅうすけ)と伊豆の下田で、アメリカに1854年密航を企てて失敗して、長州藩に犯罪者の籠(かご)で送り返されて、投獄されたときの記録である。

 だから野山獄に入れられたあと、松陰が『海国図志』をはじめて読んだとすると、アメリカに決死の覚悟で渡ろうとした、彼の動機がどこからでてきたのか説明しきれない。だからやはり、1850年9月の平戸遊学のときに松蔭はすでに読んでいたと考えるべきだ。

●幕末の陽明学者たちは、開国思想を抱いていた

田中進二郎です。このように、『海国図志』は幕府の禁制をかいくぐって、陽明学者のネットワークの中でひそかに熱烈に読まれていたのである。
 松陰はこの平戸遊学の後、長崎に行き、オランダ船に試乗している。ここで肥後(ひご)勤皇党の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)と出会っている。そしていったん長州の萩に帰ったあと、翌年(1851年)に江戸に出た。4月江戸に到着すると、そのまま安積艮斎(あさか ごんさい 1791~1861)の門をたたいた。安積艮斎が佐藤一斎を師としたことは、最初に書いた。艮斎は、当然、一斎の「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」の姿勢も引き継いでいた。

(幕末の儒学者と陽明学者たちについては、副島隆彦先生の『時代を見通す力-歴史に学ぶ知恵』(PHP研究所、2008年刊)を改題した『日本の歴史を貫く柱』(PHP文庫刊、2014年)をごらんください。)

 1848年(嘉永元年)には艮斎は漢文で『洋外紀略』(ようがいきりゃく)を著して、世界の地誌、世界史、そして開国して貿易することの利を説いた。アヘン戦争の顛末(てんまつ)についての記述などが、読者に大きな衝撃を与えた。出版はされなかったが、写本がたくさん出回って艮斎の知名度は高かった。彼は、蛮社の獄(1839年)で弾圧された蘭学者たちの集まりである「尚歯会」(しょうしかい)にも加わっていた。彼の門人の川路聖謨(かわじとしあきら)も同じだ。

 陽明学者たちは蘭学者たちから西洋の科学や思想を吸収していたのである。もともと陽明学を学んでいる人間たちのネットワークのなかに蘭学がどんどん流入している。彼らは、漢籍(中国文)を読む力があったから、清国から長崎に輸入されてくる書物を読んだ。そして、アヘン戦争後のイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、プロシャなどの列強の進出に対して、開国の政策を研究していたのである。これはペリーの黒船来航よりも前のことである。

 安積艮斎は1850年に昌平黌(昌平坂学問所)の教授となった。師の佐藤一斎とともに幕府の教育機関のトップで教えつづけた。 今で言えば、東大教授であり東大総長の地位に彼らはいた。ところが、佐藤一斎は、大塩平八郎の乱のとき(1837年)、同じ陽明学者である大塩から「共に立ち上がれ」という檄文(げきぶん)を受け取っている。佐藤一斎は感動した。感動したが、呼応しなかった。後進を育てることをより重視したためだろう。安積艮斎も教育に力を尽くしていた。私塾「見山楼」(けんざんろう)でも教え続けたから掛け持ちで激務だった。

 彼は門人たちの長所をとにかく褒(ほ)めた。長所がなければ、その人が持っている筆(ふで)や硯(すずり)をほめた、という。「長所をみつけてそれを伸ばす」という教育方針からは、タイプの違った人間が生まれた。
小栗忠順(おぐりただまさ、江戸幕府最後の勘定奉行 上州権田村=ごんだむら=に所領。赤城山の埋蔵金の話で有名)、川路聖謨(幕府の勘定奉行、外国奉行などを歴任)、清河八郎(きよかわはちろう、新撰組の前身・浪士組を結成した)、岩崎弥太郎(三菱の祖)、高杉晋作・・・など2282名が見山楼の門人帳に名を連ねている。

 吉田松陰が江戸に出てすぐに安積艮斎の門をたたいたのは、海外知識も持っている儒学者として艮斎の名前がすでに全国にとどろいていたからだ。松陰が艮載のもとで学んだのはわずか二ヶ月ほどだ。その後は佐久間象山(さくましょうざん)の砲術塾に行き、象山に心酔することになる。象山と松蔭は、1854年に連れ立って下田の黒船を見に行ったのだ。 艮斎の私塾・見山楼の教育方針はのちの「松下村塾」に引き継がれている。

●川路聖謨が『海国図志』の重要性に着目して翻訳・刊行を開始

 1854年、幕臣の能吏の川路聖謨(かわじとしあきら)は、ロシアとの日露間の修好通商条約の交渉の幕府の代表として、長崎にいく。交渉の相手はプチャーチンだった。長崎でなければ交渉しないと、回航させられたプチャーチンが持参した、ロシア皇帝からの国書に対する幕府の返書を起草したのは、安積艮斎である。

 プチャーチンと川路との会談は、川路の「ぶらくら」(あるいは「ぶらかし」)戦術にもかかわらず、和やかであった。それは川路のもつ人間の大きさにプチャーチンが敬服したから、といわれている。この交渉は、幕府が勝手にアメリカにだけ「最恵国待遇」を与えてしまったため、川路が先にプチャーチンに約束したことが反故(ほご)となって失敗に終わる。

 このとき川路は交渉が行われた長崎で、魏源(ぎげん)の『海国図志』を発見する。対露交渉団の一員だった箕作阮甫(みつくりげんぽ、 1779~1863 津山藩士、蘭学者)とともにこの本を読み、その重要性に気づいた。そこでこの『海国図志』を江戸に持ち帰り、塩谷宕陰(しおのやとういん 儒学者)と箕作阮甫に訓点(くんてん)を施させた。それが幕府公認で複刻されるや、『海国図志』は全国の知識人層からむさぼるように読まれた。ここで本当に日本国に火がついたのである(嘉永七年1854年)。

儒学者の塩谷宕陰と蘭学者の箕作阮甫は仲むつまじく、この仕事をしたという。
塩谷がこの複刻版の終わりに次のように書いた。引用する。

(引用開始)

 この書、客歳清商(きゃくさいシンしょう)初めて舶載(はくさい)するところなり。左衛門尉(さえもんのい)川路君これを獲、その有用の書なるを謂(い)えり。?かに(すみやか)に翻栞(ほんじ)せんことを命ず。原刻ははなはだ精ならず。すこぶる偽字多し。予をしてこれを校せしむ。その土地、品物の名称はすなわち津山の箕作ヨウ(?)西、洋音を行間に注す。嗚呼 忠智の士(林則徐・魏源)、国を憂い、書を著し、その君の用を為さずして、かえって他邦(日本)にせらる。吾(われ)独り黙深(魏源の別名)の為に悲しまず。而(しこう)して並(ならび)に清主(シンしゅ)の為に文を悲しむ。

( )内は田中が入れました。

引用元;『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業団 1978年刊 p140から

(引用終わり)

田中進二郎です。このように塩谷宕陰(しおのやとういん)も『海国図志』が、清国でよりも日本において受容されていくであろうことを、清国にとっての悲劇だ、と書いている。「海国図志」はこのあと安政二年(1855年)までに20種類もの翻刻版(ほんこくばん)が出されている。このことは、この本が幕末の日本で武士階級だけでなく町人層や富農層にまで爆発的に読まれたことを物語っている。

私は ↓のサイトも、参考にした。
『幕末日本人の海外知識-海国図志と横井小楠を中心に』
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/51555/49482/1624024

田中進二郎拝