[1694]思想対立が引き起こした福島原発事故(第5回)
みなさんこんにちは、相田です。
今回は武谷の生涯の盟友ともいえる坂田昌一について触れます。
坂田といえば最初に言うべきことは、物理学者としての能力の高さです。坂田の物理学者としてのスキルは、湯川、朝永と全くの同格でした。ということは坂田は、ノーベル物理学賞を受賞する資質が十分にあったのです。事実、坂田は1960年代初めに自らが「ウルバリオン」等と呼んでいた、クオークに相当する粒子についての論文を提出していれば、かなりの確率でノーベル賞を得ていた筈です。
しかし坂田は、素粒子物理学の画期的な成果を挙げることだけでは飽き足りませんでした。坂田の真の目的は、武谷の提唱した唯物論的弁証法による哲学に従って物理学上の発見を積み重ねることで、マルクス、エンゲルス、レーニンによる思想の正統性を、自らの手で実証することにあったのです。
このように、物理学と哲学の両方の分野で、高い目標を自らに課していた坂田でしたが、その晩年には思いがけない悲劇が訪れます。
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思想対立が引き起こした福島原発事故
第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折
武谷は文筆家、思想家として名を挙げた反面、素粒子物理学の分野では実は世界レベルの目立った成果を残していない。その一方で盟友の坂田昌一は、本業の方でも大きな成果をあげている。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川の中間子と同じ質量の粒子が発見されたことで湯川グループの研究に大きな注目が集まった。しかし観測された粒子の寿命は、湯川が予言した中間子よりも遥かに長かったことから、湯川理論の修正が要求されていた。
京大の湯川の下を離れて新設の名古屋大学に移った坂田は、後輩の谷川安孝(たにがわやすたか)が出したアイデアを元に、湯川の予言した粒子(π中間子〔パイちゅうかんし〕)が極短時間でニュートリノ(質量を持たない微粒子)を放出して、寿命の長い別の粒子(μ粒子〔ミューりゅうし〕)に変化した後に観測に捉えられるという「2中間子論」を1942年に提唱し、実験結果との矛盾について見事な説明を与えた。また坂田が同時期に発表した「C中間子」の理論は、電磁場の量子化を行う際の「無限大の発散」を一部解決できるアイデアを提供したことから、朝永の「くり込み論」の完成につながる優れたモデルとして評価されている。
京都大学で晩年の湯川に学んだ物理学者の佐藤文隆(さとうふみたか)氏の著書「破られた対称性」(PHPサイエンスワールド、2009年)の中に、坂田の生い立ちについての簡単な説明がある。坂田の父は戦前の愛媛県、香川県知事を務めた高級官史であり、大阪の経済人としても活躍した要人であった。
兵庫県の高級住宅街の自宅から甲南高校に通っていた坂田の先輩に、加藤正(かとうただし)という人物がいた。数か国語をマスターした語学の達人であった加藤は、高校時代からエンゲルスの「自然の弁証法」を翻訳しており、後に岩波文庫から加藤の訳本が出版されたという。坂田は出版前から加藤を通じてその内容を聞かされており、「日本人としても非常に早く自然弁証法になじむことができた」そうである。
その後の京大時代の武谷との交流等を通じて、坂田は武谷を凌ぐ強固な左翼主義に染まって行った。坂田は日頃から共産主義者であることを公言しており、名古屋大学の研究室でのとある親睦会の際には「スターリンに乾杯」と挨拶したという。1963年に中国が自国の科学研究をPRするために開催した「北京シンポジウム」には、坂田は日本代表団の団長として参加し毛沢東とも会見している。
また、坂田や彼の弟子たちが執筆した論文や学会講演の発表の冒頭には、物理とは直接関係しない、弁証論的唯物論に関する哲学的な論考を述べることが多々あった。物理学とは無関係な哲学思考を持ち込む坂田グループのスタイルには、当時から賛否両論の意見があった。海外の研究者達は坂田のグループを「共産主義思想を自然科学に持ち込む異分子たち」とみなすケースもあり、研究成果も無視されて論文引用されないこともあったらしい。
前述したように、坂田はかねてより武谷の三段階論の有効性を信じており、三段階論を用いることで誰もが自然科学の真実を明らかにできると公言していた。武谷自身は自分の主張を素粒子物理学の成果として残すことはできなかったが、坂田による一連の優れた発見が、武谷の主張に強い説得力を持たせていた。終戦直後からしばらくの間の、左翼思想全盛期の日本においては、坂田こそが物理学者としてのあるべき理想像を提示していたともいえる。
しかし物理的な考察よりも哲学に固執する傾向のある坂田は、その生涯の最後に自らの研究の判断を誤ってしまい、尻尾を捕まえていた大魚を逃してしまう羽目となる。それは坂田が「クオーク」モデルの発見に至らず、ノーベル物理学賞を受賞せずに終わってしまったことである。
以下の話は、広島大学出身の素粒子物理学者の小出義夫(こいでよしお)氏が、静岡県立大学出版の「経営と情報」という雑誌に書かれた論考「なぜ坂田学派はクオーク模型にたどりつけなかったのか」(1995年)からの引用である。クオークとは陽子、中性子等の内部に存在するとされる微細粒子であり1964年にM.ゲル・マンというアメリカの物理学者により存在が予言されたものである。しかしゲル・マンの発表に先立つこと9年前に、坂田はクオーク模型に限りなく近いモデルを発表していた。にもかかわらず最後の詰めを誤った坂田とその弟子達は、みすみすゲルマンに栄冠をさらわれることとなる。
1955年に坂田は、素粒子の中でも中性子・陽子・ラムダ粒子(1947年に宇宙線から発見された)の3種を基本粒子とし、他の粒子はこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという「坂田模型」を発表した。この考えは坂田の物理学上の最大の成果とされており、「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有する」という、坂田の哲学が強く反映されたモデルでもあった。
坂田模型はその発表当初においては、当時知られていた素粒子の挙動を良く説明出来ることから、高い評価を得られた。しかし1960年頃になり、海外での最新の加速器を用いた研究から新たな多くの素粒子が発見されると、坂田模型では説明出来ない現象が多く存在することが明らかになった。
1960年代当時の米国では、このような多数の素粒子の特性を記述するモデルとして、J.チューにより提唱された「ブートストラップ(靴ひも)理論」という考えが、学会の主流を占めていた。チューの理論では「発見された多数の素粒子は、実際はどれも同じで区別することはできない」とし「実験や観測条件の違いにより、素粒子の状態が異なって見えるだけである」とされていた。異なる特性を持つように見える素粒子の間は「靴ひも」で相互に結ばれており、それぞれは平等、対等なのだ、という考えである。
ブートストラップ理論では実験等による素粒子の変化を、量子力学の立役者の一人であるハイゼンベルクの提唱した「S行列」と呼ばれる数学により記述する。チューによると「S行列」を展開して得られる反応前後の粒子状態を知ることが重要であり、反応メカニズムの詳細や素粒子内部の構造を逐一議論することは無意味であると考えられていた。これは、人間が認識できない現象を仮定して議論することは無意味であるとするマッハの考えに近く、坂田の主張する「素粒子の持つ無限の階層性」を真っ向から否定する理論でもあった。
1960年代になると日本の素粒子論グループの中にも、自然科学の中に左翼思想を持ち込む武谷、坂田の考えに辟易して、米国から「S行列」理論を導入して研究を行うグループが、関東の大学に広まっていた。この状況に危機感を抱いた坂田は、坂田模型の提唱後は自らでの研究を行うことを控えて、自分のシンパを全国の大学に広めるための政治的な活動に注力するようになったという。
そうこうする合間に、ブートストラップ理論全盛とみられた米国の研究者の中に、秘かに坂田模型に着目して改良する動きがあることを、坂田とその弟子達は不覚にも見逃していた。
1964年にゲル・マンは坂田模型のような既知の粒子ではなく、今まで知られていないクオーク呼ぶ新たな粒子3個の組み合わせにより、既存の素粒子は構成されるというモデルを発表した。クオークが坂田模型と異なる点は、1個の電子が持つ電荷の1/3、2/3という「分数電荷」を有するという、単純ではあるが革新的な条件を加えたことにある。3個のクオークが結合することで、見かけ上の分数電荷は相殺されて、通常は見えなくなるのである。
しかし1/3の電荷を持つなどという粒子は、それまで実験からも理論からも提唱されたことは無かった。それでもゲル・マンは、アメリカでの最新の原子核実験データに基づき、坂田模型が持つ矛盾を数学的な妥当性から丹念に検証した結果として、これしかないという新たな理論に至った。
ゲル・マンの論文から一月後に、ツヴァイクという学者もまた「エース」と呼ぶクオークと全く同一の理論を纏めた論文を完成させた。しかし素粒子の内部に未知の粒子が存在するという理論は、「S行列」全盛の当時はあまりにも斬新すぎたことから、ツヴァイクの論文は当時の主要な学会誌の全てから掲載を拒否されてしまう。一方でこのような状況を予測していたゲル・マンは、自らの論文を創刊間もない歴史の浅い欧州の論文誌に投稿することで、発表を許されたという。
このような周到な配慮の甲斐もあり、1969年にゲル・マンはクオークモデルとそれ以前の素粒子物理学への貢献を併せて、ノーベル物理学賞を単独で受賞することになる。論文の掲載を拒否されたツヴァイクは、ゲル・マンと全く同じアイデアを持っていたにも係らず受賞無しに終わった。
クオークモデルが発表された直後の日本では、武谷等により、「クオークは坂田模型の一つのバリエーションに過ぎず、独創性に欠ける」という、坂田の優位性を主張するコメントが数多く展開された。また実験でクオークが単独で確認されない(現在でも未確認である)ことから、「クオークの妥当性には未だに疑問がある」とも言われた。
しかし、クオークモデルは坂田模型の抱えていた全ての欠点を解決すると共に、その後の加速器による実験や新たな理論による検証にも耐え抜き、70年代後半になるとその存在について疑う研究者はほとんどいなくなった。それとともに坂田模型は忘れられることとなってしまった。
「クオークと坂田模型の間には本質的な差異などない」という、武谷等の主張にも一理あるとも思えるが、今になると結局は負け犬の遠吠えでしかない。そもそも坂田模型の提案からクオークの発表まで10年近くのインターバルがあった。その間に実験データとの矛盾を埋めるモデルを提案する機会は、坂田達には幾らでもあった。
実際に坂田の弟子達の間では、電荷が1/3の仮想粒子を置くと、数式上では実験結果が上手く説明できるとの認識はあったらしい。しかし、「実体」を重要視する三段階論の思想から、このモデルは単なる数学的な辻褄合わせに過ぎないとされ、「実在する粒子」の組み合わせによる坂田模型を修正するには至らなかったという。また坂田達の師である湯川が、分数電荷を持つ粒子の存在を頑に否定していたことも、論文化が見送られた理由の一つであるらしい。
それでも「正しい方法論を用いるならば、誰もが優れた研究成果を見出すことが出来る」ということが、かねてからの坂田の主張であるならば、湯川が反対したために正しい発見に至らなかったことは、理由にはならないと私は思う。結局は自らの哲学に執着しすぎたことで、「ありのままの」自然を謙虚に観察する姿勢に欠けたことが、坂田グループの敗因に繋がったといえる。
坂田は1970年に59歳の短い生涯を失意の中で終える。しかし、その数年後に坂田の薫陶を受けた、益川、小林のコンビが「CP対称性の破れ」と呼ばれる現象を見出して、2008年のノーベル賞受賞に繋がることになる。坂田自身は栄光に至ることはできなかったが、偉大な物理学者として残したその功績は、後世まで受け継がれるであろう。
(続く)
相田英男 拝