[1678]幕末思想家を動かした清末知識人魏源と林則徐

田中進二郎 投稿日:2014/10/05 07:46

幕末思想家を揺り起こした清朝知識人-魏源の『海国図志』
(その一)               田中 進二郎
・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人
・梁啓超の著作『清代学術概論』で高く評価されている魏源
・日本でもっとも早くに『海国図志』を読んだのはわずか齢二十の吉田松陰である
・海国図志は、強盛な西欧諸国のパワーの根源にサイエンスがあると説いた
・幕末三大思想家- 吉田松陰・佐久間象山・横井小楠をつなぐ『海国図志』の影響
・漢籍『海国図志』が幕末知識人に与えた衝撃は、幕末に翻訳された『聖書』や『万国公法』に匹敵する

・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人

魏源(ぎげん Wei Yuan 1794-1856)という中国人の名前はあまり知られていないだろう。が、英雄・林則徐(りん そくじょ Lin Zexu 1785-1850)なら有名だ。アヘン戦争(第一次アヘン戦争 1840-1842) の引き金となった、広東でのイギリスの倉庫からのアヘンの押収、処分を指揮した、当時の清朝の欽差大臣である。
一方の魏源は、アヘン戦争勃発より前に、清朝がすでに衰退をはじめている、と洞察した儒学者だ。そして、清朝の政治改革の必要性をもっとも早くに、『皇朝経世文編』(1826年刊)という書物で説いていた。日本では、異国船打払い令が出された翌年のことだ。
魏源は、科挙の殿試(最終試験)には、なかなか通らなかったが、著作を通して清の政府高官(経世官僚たち)に影響を与えた儒学者だった。

副島学問道場の古村治彦氏が今年の春に翻訳された書『野望の中国近現代史-帝国は復活する』(原題:Wealth and Power-China’s Long March to the 21st century オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー共著 ビジネス社刊)。この本の第二章「行己有恥-魏源」が彼についての優れた解説になっている。(写真↑)
この本で、魏源は近現代中国の先駆的な改革者(reformer)として登場している。この章を参照、引用しながら『海国図志』(Illustrated Treatise On Sea Powers ,1843)
に関する考察を試みる。

中国で最初の麻薬取締官となった欽差大臣(特命を与えられた大臣)・林則徐はイギリスのヴィクトリア女王に書簡を送り、アヘン貿易を中止するよう求めた。しかし、当時のイギリスはパーマストン卿に代表される、強硬派の砲艦外交(Gun-boat Diplomacy)が優位を占めた。グラッドストーンらの出兵反対派を抑えて、議会で清への出兵が可決された(賛成271票、反対262票)。こうして軍艦14隻を中心とするイギリス東洋艦隊が中国に向かった。
林則徐は広東に要塞を作って、イギリス艦隊を迎え撃とうとした。しかし、イギリス艦隊は、広東を通り過ぎて、さらに北上、アモイ、上海に砲撃を加えた。さらに清の道光帝ののど元に刀を突きつける形で、北京の外港である天津に姿を現した。
このことに動揺した清の道光帝は林則徐を解任して、イギリスとの和平を求めた(1840年9月)。林則徐は、北京に召喚され、敗戦の責任をとらされることになる。

翌1841年に、林則徐は(現在の新疆ウイグル自治区の)イリに追放されることになる。がその前に林則徐は、揚州にいる盟友の魏源に、イギリスをはじめとする西欧諸国の情報・資料を与えた。林則徐と魏源に共通する考えとは、この敗北の屈辱をよくかみしめて、西洋の進んだ科学技術を進んで取り入れることが急務だ、ということだった。
しかし、二人の考えを理解する人間は、非常に少数だった。清政府内には、和平派、主戦派がいた。だが双方とも、清国が重大な危機に陥っているということ、イギリス帝国が科学の発展を基盤とした強国であるということを認めなかった。
やがて、主戦派が清政府で主導権を握ると、戦争が再開される(1841年春)。林則徐の後任の司令官は無謀にも、イギリス艦隊に奇襲攻撃をかけ、反撃され広東を落とされてしまう。
魏源はこのときの模様を「海国図志」に次のように記述している。

-清政府からの資金が途絶えて、清軍の兵士に食料費も支払われなかった。広東の虎門を守る提督の関天培は自分の財産から、兵士に銀二円を支給した。一方、イギリス(英吉利)軍は漢人の賊徒三千人を銀三十円で雇っている。
(英夷攻広東時、募漢奸三千人。毎人給安家銀三十円、毎月工食銀十円。而我守虎門兵月餉不及三両。提督関天培憫兵之窮苦。自捐賞血欠、毎兵銀二円。-「海国図志 巻一」より)
インドの傭兵部隊(セポイ)や本国からの増援部隊でさらに強化されたイギリス艦隊は、今度は長江に侵入した。清国の物流の大動脈を断ち切って、一国の経済を恐慌に陥れていく。穀倉地帯の中国南部の米の輸送路が分断される。ジャンク船は次々と沈められていく。アヘン戦争を描いた、あの有名な絵のとおりだ。長江の沿岸都市は砲撃で破壊された。80隻のイギリスの戦艦が暴れまわった、と魏源は書く。
魏源の住む揚州は南京に近い、長江の北岸にあった。塩商人が多く裕福な町だった。だから、イギリス軍に50万両の銀を払って、なんとか街は砲撃を免れることができた。しかし、揚州以外の周辺の都市はかたっぱしから砲撃されたのだ。それを魏源は茫然と眺めるよりほかなかった。この戦場のありさまを魏源は、『海国図志』の第一巻(60巻本。最後には100巻になる。)にありありと描いた。
イギリス艦隊が長江を遡上して、鎮江を陥落させ南京に近づいたとき、道光帝は戦意を失い、和平のための交渉団を南京に送った。屈辱的な南京条約はこうして、締結された。(1842年8月)

魏源は、ちょうどこの月に揚州で、十年にわたる著述である「聖武記」(Records of conquest )を完成させた。こちらは、「海国図志」と異なって、清朝の初期の統治(盛世)を讃えたものだ。
しかし、すでに清朝の威信は地に落ちている。清が衰退している今、これまでの清朝の対外政策を一新せよ、と説得するために「聖武記」は書かれたのである。

だから、魏源はこの本の前書きに、「恥辱を感じれば努力するようになる。」「恥辱を感じることで勇気が生まれる」と書いた.
アヘン戦争の敗北のあと、中国近現代史の中で改革者(reformers)たちが少しづつ現れてくる。彼らは魏源の「聖武記」、「海国図志」から影響を受けた。しかしアヘン戦争後もまだ多くの官僚は、「清は世界の中心」と考えていたことも確かである。

・梁啓超の著作『清代学術概論』

梁啓超(りょう けいちょう Liang Qichao 1873-1929)は魏源の死後、17年後に生まれた清末・民国初期の政治家、啓蒙的ジャーナリスト、学者である。前掲の『野望の中国近現代史』でも第5章で取り上げられている。ここで、清代後期の学者だった魏源はどのような学者であったかを知るために、梁啓超の『清代学術概論』を見てみよう。

梁啓超は、『清代学術概論』(1921年刊 東洋文庫所収 副題:中国のルネサンス 訳:小野和子)で清代の学問(以下、清学と書く)の総括的、体系的な歴史を書いた。ここには、清代の儒学者たちの考証学が中国の近代化の土台となったことが解説されている。魏源も登場している。この著作よりも以前に、梁啓超は魏源の『皇朝経世文編』の新版に寄せた序文を書いている。そこで彼は、ヨーロッパはまったく新しい科学・技術・哲学・政治・法律のもとに産業革命を進展させたのだ、と書いた。フランシス・ベーコン(1561-1626)の『ニュー・アトランティス』というのはそのことを指し示すことばなのだ、と書いた。ルネサンス時代のヨーロッパで大きな正体のわからない社会変動が起こっている。その総体を「新大陸」とベーコンは命名した、と梁啓超は言った。その後、梁啓超はヨーロッパのルネサンスについての概説書を書いた。その余勢を駆って、たったの15日間で、清代約300年の学術の総括の『清代学術概論』を書き上げた。まさに驚異的なことである。       
因みに、この著作の中で、梁啓超は自らを、師の康有夷(こう ゆうい Kang Youwei 1858-1927 )とともに清の儒学の大きな伝統の最後をしめくくる人間である、と書いている。

『清代学術概論』の中で、梁啓超は清学の起源が、朱子や王陽明をあがめる学者たちへの批判・攻撃なのだ、と説いている。宋代、明代の学者は孔子・孟子の思想よりも、朱子や王陽明を重んじた。驚くことに、陽明学ですらも、中国にあってはすでに体制側の学問に変質していた、という。この思想的状況は、実にヨーロッパにおいて、イエス・キリストの教えが忘れられて、ローマ・カトリック教会が民衆を支配したのとおなじだった。宋、明の儒学者たちが奉じる理学(朱子学・陽明学)に共通していたのは、孔孟をあげつらうことはしても、朱子・王陽明を批判することは絶対にしない、という宗教的ドグマ(教義)だ。
イタリアのルネサンス(リナシメント)がカトリック教会の教義に対して、懐疑し、古代ギリシャ・プラトンの源流にさかのぼっていったこと。これとおなじ運動が清代中国で行われたのだ。その火蓋(ひぶた)を切っておとしたのが、顧炎武(こ えんぶ1613-1682)だった。彼は「経世致用」をスローガンに掲げ、理学に対して自分の学問を経学と称した。
この学派は考証学派と呼ばれている。顧炎武は「経学の祖」であり、同時代の黄宗羲(こう そうぎ 1612-1695)はこれに歴史学を加えた。だから「史学の祖」だと、梁啓超はいう。
以下、『清代学術概論』(p42)より引用する。
(引用開始)
黄宗羲は、史学を根底としていたために、経世致用を論じてとりわけくわしい。その近代思想にもっとも影響を与えたものは、『明夷待訪録』である。その言にいう。

 後世の人君(君主 田中注)たるものは,・・・天下の利をすべて自分に収め、天下の害はすべて人に帰せしめて、・・・天下の人をして、みずから私するを得しめず、みずから利するを得しめず、自分の大私を天下の大公にしてしまい、・・・天下を莫大の財産と心得る。・・・およそ天下の地で安寧なところとてないのは、君の故である。・・・天下の人が「その君を憎悪すること寇(こそ泥 )のごとく」、また「独夫」よばわりしているのは、故なきことではないのである。
天地の広大さから考えて、万人の中でただ一人だけが勝手なことをしてよいのだろうか。だから、暴君を誅した武王は聖人であり、革命を認めた孟子の言葉は、聖人の言葉なのである。(湯武放伐論)
しかるに、くだらぬ学者がこせこせとし、「君臣の義は天地の間に逃るるところなし」と為し、はなはだしきは桀王・紂王のような暴君に対しても、湯王や武王は彼らを誅すべきではなかったといい、・・・「父のごとく天の如し」との空虚な名辞をもって、他人が君位をうかがうことを禁じようとする。彼らは孟子の言を不都合だとして、廟から孟子を除外したのだが、それは小儒の言葉が発端なのだ。・・・
(引用終わり)
黄宗義『明夷待訪録』原君(↓)より加筆した部分もあります。www.geocities.jp/ichitsubo_de_gozaru/col002.html

田中進二郎です。梁啓超は清の末期に、この『明夷待訪録』を簡略化したものを数万部印刷して秘密裏に配布した。
また梁啓超が、黄宗羲の思想を重視していたことは、副島先生と石平氏の対談本『中国人の本性』(徳間書店刊)の終章「中国を根底で動かした愛国思想家の系譜」でも書かれている。副島先生は強調している。
(以下、『中国人の本性』p235より引用する。)
副島―『明夷待訪録』という本は、明から清への交替を経験した黄宗義が、明朝末期の社会混乱の原因や理由を考察し、君主専制の否定、「民本重民」の思想をのべたものです。この時代の政治評論集として白眉(はくび)であると評価されています。黄宗義の『明夷待訪録』は中国のルソー、中国の「民約論」として清朝末期にもてはやされ、「排満興漢」の起爆剤になった。
(引用終わり)
田中進二郎です。黄宗羲の父親は、明の復興を企てる政治結社・東林党に属していたために清の政府によって殺されている。その仇を討つために彼は生涯懐に刀を入れて持ち歩いていた、という。黄宗義の『明夷待訪録』によって、湯武放伐論という革命思想が生まれたのだ。
また幕末日本でも、湯武放伐論を援用した人物がいた。それは吉田松陰である。彼は、アメリカ船ポーハタン号に乗り込み、密航を企てたとして幕府に罰せられた。(1854年)長州の萩の野山獄に入獄中に、おなじ囚人たちを前に孟子を講義している。この講義録として、『講孟箚記(こうもうさつき)』が著された。この本の中でも吉田松陰は「漢土における湯武放伐論は、至極理にかなっている。しかし、わが国日本の場合、日本の国土は天皇が末永く守られるものである。漢土における天が日本では皇室だ。だから皇室を倒すなどという他念を持ってはならない。しかし一方、征夷大将軍の地位は皇室に任命されたものである。これは堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う)や桀・紂(けつ・ちゅう)と同じ立場である。征夷大将軍の職責を果たすことが出来ない者はすぐに廃しても構わない。
けれども、皇室の命を奉じないでこれを討とうとすれば、これは義戦ではない。」と言っている。
(『講孟箚記』巻の一 第八章より要約)
ところで吉田松陰と梁啓超には隠されたつながりがあるようだ。時代は下って 1898年に、梁啓超は光緒帝から召しだされ、清国の大胆な改革に協力することになった。が、この改革はわずか百日で終わり、西太后(せいたいごう)は保守化し、梁の逮捕を命じた。梁啓超は北京の日本の領事館に逃げ込んだ。彼を保護するように命じたのは、当時日本の総理大臣の大隈重信であった。伊藤博文も亡命に協力した。梁啓超は天津から軍艦「大島」に乗って、日本に亡命することになる。この時からの日本での亡命生活は14年に及んだ。梁啓超は日本名を「吉田晋」と名乗った。この吉田晋という名はおそらく吉田松陰と高杉晋作を合成したのだろう。
(前掲書 古村治彦訳『野望の中国近現代史』p114かいた116を参照)
このように黄宗義に始まって、梁啓超にいたるまで清代(1644-1912)を通じて、知識人は清朝政府から弾圧を受け続けていた。
だから知識人たちは、清が繁栄している間はおおっぴらな政治運動は行わなかった。
清の康煕帝(こうきてい)が召喚しても、重病を装い、固く門を閉ざして皇帝に拝謁することを断る、という人物もいたという。清代の考証学者の多くは、浙江省・江蘇省など華南地方の出身であった。弟子などは取らないで、ごく限られたネットワークのなかで、師友関係を保っていた。
そして、『海国図志』を著した魏源も、故郷の揚州でそのようなネットワーク、同志を持っていたようだ。「海国図志」にはそうした、少数の人々が作成に加わっていたと考えられる。
 魏源が『聖武記』や『海国図志』を完成させたのは揚州(現・江蘇省揚州市)においてだった。この地で、清朝の最初の時期に「揚州十日事件」という悲惨な虐殺事件がおきている。アヘン戦争の200年ほど前だ。明が1644年に滅亡した後も、明の遺臣たちは、南京を拠点として清に抵抗した。長江流域の諸都市もこれにならった。が、1645年、順治帝の送り込んだ清軍が揚州を包囲して攻め落とす。その直後、80万人という住民の大殺戮がおこなわれたという。
(『蜀碧・揚州十日記(しょくへき・ようしゅうじゅうじつき)』東洋文庫所収。『揚州十日記』は1805年(文政 年)日本でも刊行されている。)
 清代の史学者であった魏源の心中には、清朝政府に対して穏やかならざるものがあったと推測される。

●清の知識人たちにアメリカのユニテリアン教会が世界の情報を提供していた

 魏源の『海国図志』(60巻、のち100巻になる。)の中には、当時最先端の世界情勢が含まれていた。林則徐が魏源に、海洋大国イギリスを分析するように、情報・資料を大量に渡したからである。その中にはアメリカ公理会(美国公理会 the Congregation church, 副島先生は「Public Beneficiary Societyのことではないか」とおっしゃっています。)の宣教師があらわした事典の翻訳があった。
 アメリカン・ボードが初めて中国に送った最初の宣教師、ブリッジマン(Bridgman 1801-1861)が、1830年に中国の広東に来ていた。彼はアメリカのマサチューセッツ州の生まれで、ヨーロッパ各国や、日本・中国などアジアの地誌を手当たりしだいに読み、世界に飛び出していった。ジャカルタ・シンガポールで華人に会って、彼らが世界をまったく知らないことに驚き、漢字版『アメリカ合衆国全図』や『地球図』を製作した。そして、世界地理の百科事典を出版する。このブリッジマンが当時の典型的なアメリカのユニテリアンだろう。彼のような人にとっては、キリスト教の伝道はさほど意味を持たなかった。むしろ科学(science)を探求する方に熱心だったはずだ。また、林則徐・魏源のような、当時の優れた清の知識人たちも、イギリス帝国がいかにして強国になりえたのか、その根本原因を科学の発達に求めていたのである。

(注)アメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンの百科事典が『海国図誌』になった、というのがこれまでの説でした。『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業会 1953年刊)はブリッジマン説です。が、最近の『海国図誌』の研究者は、イギリス人のヒュー・マレー(Hugh Murray )が1834年に刊行した地理事典(The encyclopedia of Geography)が『海国図誌』の元だと書いています。欽差大臣・林則徐はこの地理事典を英語から中国語に翻訳して『四洲誌』と題して、魏源に渡した。こちらの説が有力なようです。その一例としてセルゲイ・ヴラディ氏(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所)の論文を挙げておきます。↓また、こちらを読むと、林則徐が当時の清朝の国家戦略を考える知識人であったことがうかがえます。
―「19世紀の中国における世界地理への関心と林則徐著『俄羅斯国(オロシャ国)記要』http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/116/news116-09essay1.html
スラブ研究センターニュース季刊2009年秋号NO116
 
ところで、ブリッジマンが広東にやってきた二年後の1832年に、ポーランド人のギュツラフ(Karl Friedlich Gutzulaff 1803-1851)がマカオにやってきている。キリスト教のアジア宣教が目的でやってきているが、この人物には裏がある。ジャーディン・マセソン商会の手先として、林則徐に対しアヘンの持込みを認めるよう、強硬な要求を突きつけている。またアヘン戦争の南京条約締結の際、通訳をしている。つまり、イギリス帝国が送りこんだワルの一人だ。幕末に武力倒幕を裏でしくんだイギリス外交官アーネスト・サトウの先輩のような人間だ。驚くべきことに、ギュツラフの甥が、幕末日本の英国大使だったハリー・パークス(1882-1885)そのひとである。
 ギュツラフは天才的な語学力を生かして、シンガポールで日本語訳聖書を著して本にした。1832年10月、尾張国(愛知県)の船乗りたちが遭難して、十四カ月も漂流した後アメリカ西海岸に漂着した。岩吉、久吉、音吉の三人である。彼らはなぜか汽船でイギリスに送られ、さらにそこからマカオに送られている。これはイギリスが日本に開国を迫るための材料として、漂流民をとどけるという名目を必要としたからである。
ギュツラフは彼ら三人から日本語を学び、1837年に上述の日本語訳聖書(『約翰福音之傳』(やくかんふくいんのでん-ヨハネ福音書の訳書)を完成した。これが出来上がると、彼らのほか新たに肥後の漁師の漂流民4名を加えて、モリソン号(アメリカの商船)でマカオを出発した。岩吉、久吉、音吉たちはまったく自分の意志とは無関係に地球を一周させられたのだ。しかし、彼らは日本の土を踏むことはできなかった。浦賀にやってきたモリソン号を幕府が砲撃したからである。幕府は当時「無二念打ち払い令」をしいていた。彼らはどこにも上陸することを許されなかった。この時の幕府のやり方を批判したのが、渡辺崋山と高野長英である。これは蛮社の獄へつながっていく。

それからはるかに時がたって、1862年にシンガポールにいた音吉を訪れたのが、幕府の第一次遣欧使節団の一行である。福沢諭吉もこの中に加わっていた。ここで音吉からじかに、イギリス帝国の外交のすさまじさを聞くことができた。福沢はその二年前にアメリカに咸臨丸で渡っている。その航海中にジョン万次郎から聞いた話と、重ね合わせたはずだ。当時の覇権国イギリスに日本が植民地にされてしまわないためには、アメリカのユニテリアンの力を借りなければとても無理だ、と考えただろう。
(ギュツラフについては、島根慶一氏のサイトより「ギュツラフとその時代(1)」
上海ビジネスフォーラムを参考にした。→)http://www.sbfnet.cn/useful/history/41.html
海洋大国イギリスが東アジアに勢力を急速に伸ばしていくなかで、危機を抱いた中国、日本の知識人たちが、イギリスやアメリカから最新の海外知識を得ようとしていた。
次回は、幕末日本人、吉田松陰、佐久間象山、川路聖あきら(かわじ としあきら)らが魏源の『海国図誌』を読んで、どのように思想を変容させていったかについて、書きます。
田中進二郎拝