[1677]思想対立が引き起こした福島原発事故(第4回)

相田(Wired) 投稿日:2014/10/03 00:12

みなさんこんにちは。
相田です。

あと何回かこちらに書かせて下さい。

前回[1671]の投稿では、実は副島先生に文章を少し直して頂きました。
最初はふにゃふにゃした処があった文章を、背筋がびしっと入ったものに変えて頂きました。
ありがとうございました。

今回は、武谷の思想に関するルーツと影響を与えた人物たちに触れます。

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思想対立が引き起こした福島原発事故

第1章 素粒子論グループの栄光とその影

1.3「哲学者」武谷三男と三段階論

(前回[1671]の続きです)

三段階論に代表される武谷の学説に関しては、発表当時からその真贋をめぐって多くの論争が繰り返されることとなった。いかにも大風呂敷を広げたかのような武谷の考えには、突っ込みどころも数多いと思える。しかしマルクス理論に加えて、湯川仕込みの素粒子物理学の専門用語を交えて繰り出す(煙に巻く?)武谷の説明に対し、真正面から論破するのは、通常の学者では相当に困難なことであったようである。それでも後年になると、武谷の最大のライバルとして、広重徹(ひろしげてつ)というひとりの科学史(かがくし)家が登場した。

広重は京大の湯川の下で素粒子物理学を学んだ武谷の同門であり、後に専攻を科学史に鞍替えした直接の後輩にあたる学者である。学生時代は武谷理論に心酔していた広重であったが、物理学者の主導による社会改革の必然性を訴え続ける、武谷のあまりにも素朴すぎる考えから、広重は徐々に距離を置くことになり、最終的に武谷理論の最大の批判者として対立することとなった。

広重はその登場により、日本の科学史研究を世界レベルまで引き上げたとも言われる、科学史の分野ではカリスマ化されている人物である。広重の著作の一つ「戦後日本の科学者運動」(1960年、中央公論社)は非常に優れた内容であり、本論考を書く際にも多くを参考にさせてもらっている。

武谷と広重の間では度重なる論争が行われた(私はここまでフォローしきれていません)。その中で広重は「三段階論は中間子論に代表される素粒子物理学の発展に有効であったか」という問題に対し、丹念な歴史の検証を行うことでこれを否定し、歴史法則としての三段階論にも有効性は認められない、と結論付けたとされる。そして、広重以降の科学史のフィールドでは、三段階論を始めとする武谷のほとんどの学説は、主要な研究テーマとしては取り上げられなくなった、ということらしい。

実は武谷の思想が近年なかなか話題にならない理由はこれだけではない。もう一つ大きな事情があるのだが、これについては後で説明する。

広重は思想家として非常に才能に恵まれた人物であったが、70年代初めに体調を崩し、40代半ばの若さでガンによりで夭折している。広重に大きな影響を受けたことを自認しているのが、九州大学副学長で原子力開発への批判的論考を数多く発表している吉岡斉(よしおかひとし)である。

吉岡の「原子力の社会史 その日本的展開(朝日選書)」(1999年の旧版、福島事故後の2011年10月に改訂・追記版が出た)は、日本の原子力開発の歴史を網羅した現状では唯一の本である。吉岡はこの本の内容について、広重の後期の代表作である「科学の社会史」(1973年、中央公論社)を念頭において書いたと述べている。

広重は1960年の「戦後日本の科学者運動」において、茅―伏見提案から東海第一原発建設までの関係者達について鋭い批判を加えているが、その後に書かれた「科学の社会史」では、原子力については何も記述しないまま、広重は世を去った。吉岡の研究はその広重の意思を継いだものだという自負があるようである。

 しかし私が吉岡の「原子力の社会史」読んだ感想では、広重の「戦後日本の科学者運動」に比べると、内容がかなり深みに欠けるように思える。広重が感じていた「科学者としての悩み」のような重さが、吉岡の本には見当たらず、膨大な記述があっさりと進んでゆくだけなのが、私には不満である。

吉岡のこの本については、私は他にも不満がある。それは戦後の原子力開発の歴史の中で、3.11福島事故の直接の引金をひいたともいえる、「ある出来事」について全く書かれていないことである。正確には少しだけ触れてはいるのだが、吉岡の説明ではその本当の重要性は全く読者には理解できない。

福島事故以来、TVや書籍等では戦後日本の原子力開発についての相当な報道がなされている。そのほとんどは、茅-伏見提案から中曽根予算、正力CIA、東海第一原発と続いたあとで、東電福島原発建設に話が進む構成になっている。しかし、正力・東海第一原発から東電福島原発建設の間に、誰もが何故かほとんど触れない、一つの重要な事件が起こっているのである。

本論考の真の目的は、その「事件」の全貌を、包み隠さず明らかにすることにある。そこに行くまでには、もう少し説明が必要である。3.11福島事故は東電という一民間企業の管理の甘さで起きた訳等ではなく、歴史の必然であったことを誰もが理解するだろう。

1.4エンゲルス、レーニンの自然科学論
武谷が拠り所とする物理学とマルクス理論とは、そもそも全く異なる分野の学説であり、両者の組み合わせには一見奇異な感じを抱く方も若い年齢の方には多いと思う。しかしこのような考えは武谷の独りよがりでは決してなく、実は偉大な先例がある。

19世紀末にマルクスの盟友であるエンゲルスは「自然の弁証法」という未完の論説集の中で、多くの自然科学者の研究例について引用、考察して、自然科学の発展における唯物論的弁証法の重要性について論じている。それから20年ほど後の1909年にかの革命家レーニンは、「唯物論と経験批判論」いう著書を出版し、左翼活動家としての観点から当時の自然科学の状況についての詳細な分析と批判を行っているのである。

レーニンの「唯物論と経験批判論」における「批判」は、19世紀後半から20世紀初頭に活躍した物理学者であり哲学者でもあるエルンスト・マッハに向けられている。流体物理の研究家であったマッハの名前は音速の単位「マッハ」の呼称として用いられている。

先に述べたように19世紀の後半は、従来の物理法則では説明できない現象が数多く見出されたことから、物理学への信頼が大きく揺らいだ時期であった。この状況に対しマッハは人間の感覚で認識できない現象は実体ではなく、物理の法則は人間の感覚で直接経験出来る関係の組み合わせのみで再構築するべきである、と強く主張した。

当時、英国のマックスウェルとドイツのボルツマンにより、気体の分子運動論(ぶんしうんどうろん)を基礎とした統計力学(とうけいりきがく)が提案されていたが、分子や原子等の人間が直接認識できない要因を仮定して物理法則を構築することをマッハは強く批判した。マッハの分子運動論への執拗な攻撃により精神を病んだボルツマンは、20世紀初頭に入ると自殺してしまう。統計物理学というアインシュタインの相対性理論(そうたいせいりろん)と並ぶ理論体系を確立したボルツマンは、もう数年生きていれば間違いなくノーベル賞を受賞したであろう偉大な物理学者であった。

 マッハ哲学は当時のヨーロッパ知識人の多くの支持を集めており、革命前のロシアにも影響が及びつつあった。人間に認識できない事象を否定するマッハ哲学は、唯物論を基盤とするマルクス主義への信頼を揺るがすと考えたレーニンは、マッハの考えを詳細に研究して反論を行った。

 レーニンは、当時の物理学が抱える問題は人間の知見がより深まることで、物理学が新たなレベルに到達したことが理由であるとした。そして、より優れた物理法則を導入することで、自然現象の矛盾のない説明が可能になることと、物理法則は実際に存在する物質を対象として取り扱うことが出来ることを、この本でレーニンは強く主張した。即ち唯物論的弁証法の勝利をレーニンは高らかに宣言したのである。レーニンの予測に従うように、同時期のヨーロッパでは、量子力学やアンシュタインの相対性理論等の革新的な理論が出現して、物理学は新たな時代を迎えることになる。

正直に言ってしまうと、私は今までマルクス、エンゲルス、レーニンの難解な本など熟読した事はない。それでも弁証法とはA B = C, 即ち安定した状態:Aに問題が生じた場合に、異なる考え:Bを加えることで、新たな解決策:Cを見出すこと、この過程が延々ときりがなく繰り返されてゆくことだと、ざっくりと考えている。この考えを自然界の物質や社会現象に適用し生かすことが、武谷、坂田が何度も主張する「唯物論的弁証法」であると、私は最近ようやく理解した所である。

後に示すように坂田昌一は「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有しており、それを一つ一つ明らかにすることが物理学者の使命である」という考えを自らの哲学としていたという。坂田のこの考えはレーニンに大きな影響を受けていると私は思う。

1.5素粒子論グループの形成
京大の湯川の同期生の朝永も、大学卒業後の数年は無休副手として過ごした後に、仁科芳雄に請われて東京の理研に移籍し、理論物理のリーダーを任されることとなった。1938年に阪大の湯川研究室が解消された後に、日本の理論物理の研究グループは湯川、坂田の京大(関西)と、朝永、武谷等の理研(東京)とに分かれることとなったが、武谷の提案により京大と理研の研究者同士の交流の場として「メソン(中間子)の会」と呼ばれる会合が、定期的に開催されるようになった。

メソンの会は「中間子討論会」と名を変えつつ、中間子論をはじめとして、当時の有力な実験ツールである霧箱(きりばこ)から得られる宇宙線の観測データや、「電磁場の量子化」等の話題について、学会とは別に自由闊達な議論が交わされた。後者の問題は、マックスウェルの電磁場方程式を量子力学で書き換えて、電子の質量やエネルギーを求める際に、数式上に無限大の発散(はっさん)が生じるもので、当時の物理学上の最大の難題であった。後に記すように朝永は「くり込み論」と呼ばれる考えにより無限大の発散を解決することに成功し、湯川に続き1965年に日本人二人目のノーベル物理学賞を得ることになる。

戦中、終戦直後は仁科、菊池等を除き、旧帝大の物理学会には量子力学に理解を示す学者は非常に少ない状況であった。しかし、湯川、朝永、坂田、武谷等の当時30代前半の才能あふれる若手研究者に率いられたグループの活躍は、次第に世の中の注目を集めることとなった。武谷、坂田の当時のファシズムに抵抗する「民主的な」言動に共感する研究者も多かったようである。

戦後になると、次々に出版された武谷の一連の著作物により、新しい時代の風を感じた多くの理科系学生達が、素粒子物理学を目指すようになった。1949年に湯川が中間子論により日本人初のノーベル賞を受賞すると、その流れは頂点に達し「素粒子論グループ」という数百人規模の若手物理学者の集団が形成された。素粒子論グループの位置づけについては、湯川の最後期の弟子でもある女性物理学者の坂東昌子(ばんどうまさこ)氏が、御自身のブログで以下のように触れられている。

-引用始め-

物理の世界では、デンマークのボーア研究所を中心にして、学問の前では対等平等な科学者たちが自由に忌憚のない議論を戦わせる気風があった。ボーアは、「科学こそ、人間の協力の最も進んだ形の1つである」と確信していたという。国境を越え性差を超えた人類の純粋な共同作業ができるネットワークが形成されていた。

そこに根付いた、コペンハーゲン精神は、先輩たちが日本に持ち帰った。この気風は、大学の枠を超えたネットワークを作り、目的のために助け合った。そして、その水先案内をしたのは、湯川秀樹・朝永振一郎であったと誇り高く思ってきた。

そこでは、学問の前では、老いも若きも上下の区別なく対等平等だという研究者集団の原則が生きた科学者の世界があった。その先取の気風が、日本における輝かしい物理学の成果を生み出したのだ、と私はずっと思っていた。

(南部モード・・・南部先生の物理、2013年8月01日、より)

-引用終わり-

相田です。
しかし素粒子論グループには、坂東氏が述べられたような表向きの意味合いの他に、もう一つの姿が実はあった。戦後に素粒子論グループに参加した若手研究者の多くは学生時代に武谷、坂田の著書を熟読しており、相当に濃い左翼思想に染まっていたという。彼らは「紙と鉛筆のみで新しい理論を作り出すことで、世界をより良い方向(即ちマルクスの予言する労働者の理想社会)に変えられる」と本気で信じる、強烈な自負心を持つ集団でもあった。

戦後の素粒子論グループが強固な左翼思想を持つに至った背景として、自らも左翼系学者を自認されている西村肇(にしむらはじめ)先生は、副島先生との幻の対談で次のような指摘をされている。1925-27年にヨーロッパで見出された量子力学は、物理学史上の最大の革新であった。ニュートンの古典的な運動方程式を波動方程式や行列を用いたエレガントな数学形式に組み替えることで、物質内部を構成する原子、電子、その他の未知の素粒子の挙動が、堰を切ったように解明された。

量子力学を初めとする近代物理学の威力を目の当たりにした学者たちは、「頭の中で高度な理論を構築し応用することで、数多くの未知な現象が解明できる」ことを経験した。彼らはさらに考えを推し進めて「正しい理論さえ与えられれば、頭の中で世の中の全ての問題は解決できる」という、強烈な自負心を持つに至った。そして1930~50年代に量子力学に相当する社会科学の理論的支柱として存在した唯一の思想が、マルクス理論であった。

「優れた理論を用いて頭の中で論理的な考察を行うことで、世の中の全ての問題の解答を得る事ができる。量子力学とマルクス理論によりそれを実現する」という思想が、戦後の素粒子論グループの隠れた教義(アクシオム)となったのである。このような考えは、物理を勉強しない人には単なる戯言でしかないように思える。しかし戦争によりインフラを破壊された荒廃した環境で、闇物資を頼りながら厳しい生活を続ける若者にとって、「自らの思考の力だけで社会をより良い方向に変えられる」と強く主張する武谷の考えは、明るい希望の道筋に見えたであろうことは、私にも想像できる。

(続く)