[1671]思想対立が引き起こした福島事故(題3回)

相田(Wired) 投稿日:2014/09/26 22:50

みなさんこんばんわ
相田です。

 この内容での3回目の投稿です。
ついに、というか前半の山場なのかもしれない「武谷(たけたに)三段階(さんだんかい)論」について紹介します。ただし、内容にガチに踏み込まずに簡単に紹介するだけです。

 武谷三男(たけたにみつお)はものすごく懐が深い人物だ。だから、今の私が彼の思想をどうこう言えるレベルには、とてもありません。立花隆(たちばなたかし)が以前「知の巨人」などと呼ばれていました。が、武谷三男、坂田昌一(さかたしょういち)の前では「雑巾掛けからやりなおせ」というくらいの人物です。本当は。原子力開発について書くのが私の目的なので、いろいろと細かいところには目をつぶって下さい。

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思想対立が引き起こした福島原発事故

第1章 素粒子論グループの栄光とその影

1.2大阪大学の湯川研究室

(前回の続きです)

 大学卒業後の武谷三男は、京大に無休副手といて籍をおいていたが、京大をほったらかしにして、専ら阪大の湯川研究室に出入りするようになる。湯川の下で計算等を手伝いながら討論等にも参加していた武谷であったが、1938年4月に無給副手として阪大に正式に採用された。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川が予測した中間子(ちゅうかんし)と同じ質量を有する未知の粒子が発見されたことで、湯川の理論には海外からも注目が集まりつつあり、研究にドライブがかかり始めた時でもあった。

 坂田昌一(さかたしょういち)、武谷三男らの協力もあり、1937から38年にかけて湯川を筆頭として坂田、武谷等を連名とする中間子の論文が3報続けて発表され、阪大の湯川グループの活動は最盛期を迎える。しかし、学生時代から左翼活動に加わっていた武谷は、38年9月に特高(とっこう)警察に逮捕され、程なくして阪大副手を辞職する。また翌39年には、湯川も坂田と共に阪大を辞めて、教授として古巣の京大に移ることが決定した。阪大における湯川グループの研究は終焉を迎えることとなった。

 釈放された武谷はその後、仁科芳雄(にしなよしお)のいた理化学研究所(りかがくけんきゅうじょ)に移った。当時の理研には京大から仁科に招かれた朝永振一郎(ともながしんいちろう)が、理論物理学のリーダーとして活躍していた。理研での武谷は陸軍から依頼された原爆開発計画 (仁科の頭文字から二号計画と呼ばれる) に従事する。しかし、1944年に再度特高に逮捕されて、またしても研究中断の憂き目にあう。

 獄中生活で体調を崩した武谷は自宅に戻ることを許され、その後は自宅から取り調べのため警察に通う日々を過ごしていた。45年の夏に広島への原爆投下の知らせを聞いた武谷は、警察に呼び出され、取り調べ官の前で、原爆の原理について黒板を使って講義を行ったそうである。感心された武谷はそのまま釈放されたという。

1.3「哲学者」武谷三男と三段階論

 武谷の名を一躍高めたのは、終戦後の46年に出版された論文集「弁証法(べんしょうほう)の諸問題」である。
 この本はタイトルから明白なとおり、彼の本業の素粒子(そりゅうし)物理学の本ではない。そうではなくてマルクス経済学の思想である唯物論(ゆいぶつろん)的弁証法を自然科学の分野に応用することで、洗練された科学思想体系を作り上げることを目的とした「哲学書」である。この本の中で武谷は後(のち)に「武谷三段階論(たけたにさんだんかいろん)」と呼ばれる有名な方法論(メソドロジー、諸学問の土台となる学問)を提案した。

 武谷は中世のコペルニクスから天文学の変革が起こりニュートン力学に至るまでの過程を考察した。
 ① ティコ・ブラーエによる星の運行に関する観測データの集積、 ② ケプラーによる惑星運動のモデル化、
③ ニュートンによる力学原理の確立、の 3段階を経て物理学が進むことに大きな意味があるとした。
 武谷はこれらの段階を、① 現象論的段階(ティコ)、② 実体論的段階(ケプラー)、③ 本質的段階(ニュートン)と定義し、この3段階の思考を繰り返すことで自然現象の理解が深まる、とした。これが三段階論の趣旨である。

 武谷が特に重要視したのは、② 実体論的段階のモデル化であり、ここで正しいモデルの提案と考察を行うことが肝心である、と武谷は主張した。

 武谷によると、「自分の師である湯川秀樹は『中間子』という実体を導入することで、当時の量子力学(りょうしりきがく)の抱えていた限界を打ち破り、素粒子物理学という新たな領域を開拓した。これこそが三段階論の成果である」ということになる。湯川のノーベル賞受賞(1949年)には、自分の三段階論も幾ばくかの貢献をしている、と訴えたかったのだろう。 

 しかし、私自身が最初にこの三段階論を知った時には、大変失礼ながら、云われるほどにそんなに凄い内容なのか、と正直思った。私が理工系の研究者として自分で行う実験も、結果を考察する際に、データを見ながら頭の中でモデルを考えることは当たり前のことであり、研究者として言わずもがなであり、そんなことは別に誰から云われずに自分でやっていたぞ、という考えが、私には今でも拭えない。

 私のこのようなレベルの低い意見は別に置くとして、終戦直後に出版された「弁証法の諸問題」を初めとする武谷の一連の著書は大きな評判を呼び、理工系の学生達にとっての必読書、バイブルとみなされるようになった。戦後の武谷は素粒子物理学の理論研究の傍(かたわ)らで、雜誌や新聞等にも科学技術に関する一般大衆向けの平易なエッセイ等も数多く執筆し、文壇のスターの一人として一躍名を広めた。

 今でも60歳以上の理工系に詳しい方々のブログ等を拝見すると、武谷理論を信奉する人々が多くおられるのを目にする。 武谷の盟友で最大の理解者でもあった坂田昌一(さかたしょういち)は、三段階論について以下のようなコメントを残している。

-引用はじめ-

 彼(武谷)はこの研究を通じて自然弁証法の最も高い段階とされる『三段階論』に到達した。この『三段階論』の発見は、私たちのその後の研究にたいしてあたかも羅針盤のごとき重要な役割を演じた。
(中略)
 物理学が量子力学に限らず、ニュートン力学にしても、相対性理論にしても、全てこのような段階をへて発展してきていることはすでに武谷君の詳細な科学史的研究によって明らかにされているところであるが、自然認識がつねにこのような経路をへて行われるのは全く自然自体がかかる弁証法的構造を持っていることに由来している。
(中略)
 真に理論を鍛え、正しい認識に導く冒険は、何よりもまず的確な見通しをもたなくてはならない。見通しのある冒険は、たとえ失敗することがあっても、失敗の中から必ず教訓を学びとる能力をもち、次の冒険での成功を確実にする。このような見通しを与える羅針盤、それが「三段階論」を頂点とする科学的な哲学である。

(「素粒子の探求」 湯川秀樹、坂田昌一、武谷三男、勁草書房、1965年 から)

-引用終わり-

相田(あいだ)です。
 上の坂田の話からわかるように、武谷の三段階論が有効性を発揮できる要因は何か、というと、「自然自体がかかる弁証法的構造を持っている」からであるという。「本当にそうなのか? お前は見たのか? 」と誰もが疑問を抱くであろうが、その話を突き詰めると無駄に文章が長くなるのでここではやらないことにする。

 そもそも「弁証法的構造」というのが一体なんであるのか、今の我々にはピンとこないのであるが、後で説明するようにどうやらこれは「自然は玉ねぎの皮を剥くような、何層にも折り重なった構造を有すること」であるらしい。

 後に武谷は、「弁証法的構造というのは自然界だけでなく、人間社会にも当てはまる特徴であることから、三段階論は社会科学の手法としても有効だ」との領域まで話を膨らませることになる。三段階論万能説である。

 終戦直後に三段階論を持って文壇にデビューした頃の武谷には、過激なまでの自己正当化を主張する論説が多く見られる。1946年に発表された武谷の論文「自然科学者の立場から ― 革命期に於ける思惟(しい)の基準 ― 」には、以下のような記述がある。

―引用はじめ―

 自然科学は最も有効な、最も実力のある最も進歩せる学問であることは万人が認める所である。かかる優れた学問を正しくつかみ、正しく推し進めて居る自然科学者は最も能力のある人々であり、これらの人々の考えは必ずや一般人を導くものでなければならぬ。
(中略)
 恐らく自然科学者達は社会科学や宗教のどんな本でも簡単に理解してしまう。しかるに宗教家や社会科学者は逆立ちしても量子力学の本などオイソレとは読めないであろう。
(中略)
 自然科学者は自己の判断が科学的になされたものであると確信を有する限り、もっと自信を持ち、もっと勇敢であってもよいのだ。

―引用終わり―

相田です。
 同じく1946年に、雑誌「思想の科学」創刊号に掲載された武谷の論文「哲学は如何にして有効さを取り戻しうるか」にも、以下のような趣旨のコメントが述べられている。

―引用はじめ―
 科学が現実に対して有力であり有効であることは皆が認めている。一方、科学論や認識論が今まで全く有効性を示したことはない。
(中略)
 哲学者たちは自然科学の前進に寄与したことはなく、自然科学の前進をさまざまに解釈するにすぎなかった。
(中略)
 物理学を論じる哲学者が物理学を理解していないという事はこれは致命的である。

―引用終わり―

相田です。以上に抜粋した武谷の文章を読むと、自然科学者としての恐ろしいまでの自負心と自己肯定にあふれていることがわかる。「自然科学者に任せていれば、世の中すべてうまくいく。物理を勉強していない奴らは黙っとれ」ということである。自然科学に関係しない哲学者や宗教家が、この武谷の記述を読んだら、怒り心頭になっただろう。

 端的に言えば、文壇デビュー当時の武谷の考えの骨子を形成するものは、「自分の思想は、マルクス、レーニンにより創られた 唯物論的弁証法 と、素粒子物理学(量子力学)という、社会科学と自然科学の最先端にある2大理論を突き詰めて、このふたつを融合することで、生み出した成果である。よって自分は、時代の最先端を進む知識人である」という強烈な自信と自負心である、と言えるだろう。

 もっと単純化すると「世の中では自分が一番頭が良くて、あとのやつらは皆アホである」、という、身も蓋(ふた)も無いものとも言っても良い。それまでの戦時下の封建的体制から解放されて、自由に言論を発表できるようになった解放感が、武谷を必要以上の過激な発言に走らせたのだろう。

 上の引用からもわかるように、武谷の論評には、この他にも他人への歯に衣着せぬ辛辣な言い回しや、人を小馬鹿にしたような皮肉な記述が多く見られる。文章自体にもあまり品が良いとは思えない表現も多い。武谷自身はロマン・ロランを愛読する非常に繊細な性格の持ち主であったらしいが、一連の彼の論考を読むと、私にはどうしても武谷の文章の端々に現れるエキセントリックさ、奇矯さが気になってしまう。

 本論考の前書きで述べたように、今に至る益川敏英(ますかわとしひで)氏や小出裕章(こいでひろあき)氏らの反体制左翼学者の原点は、私には武谷にあるように思えてならない。 別に反体制学者の全てが「おかしな人」という訳では勿論ない。反原子力研究者として名高い高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)氏 (彼も武谷の影響下にある学者の一人である)のような、一般常識を良くわきまえた普通の性格の(ように思える)方もおられる。

(続く)

相田英男 拝