[1667]思想対立が起こした福島原発事故(第2回)

相田 (Wired) 投稿日:2014/09/20 09:40

みなさんこんにちは。
Wiredこと相田です。

前回[1656]に続いて、論考を投稿します。

のっけからごめんなさいなのですが、前回の投稿の最後にいきなり間違いをやってしまいました。「演算子」なるものの説明で、分数の分子に∂(ラウンドと読みます)という記号を付けるのを見逃していました。これでは波動関数Ψを微分できなくなり、式が意味をなしません。

文科系の方々には別にどうでもいいことですが、理科系の方は大笑いされたと思います。しかたないですね、数年ぶりの投稿ですから・・・。しかし、よりによってシュレーディンガー方程式の定義のところで思い切り間違えるとは・・・

それでは以下続きです。

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「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.1 量子力学の成立過程について
(1656から続き)

それより少し前の1911年のイギリスでは、E.ラザフォードのグループにより、放射性物質から出るα線を金の薄膜に当てる実験が行われた。この実験からラザフォード等は原子は均一な球体ではなく、正電荷を帯びたごくごく小さな原子核の周囲に、負電荷を帯びた電子が分布すること、即ち原子自体が内部構造を有することを示した。ラザフォードの下で学んだデンマークの出身のN.ボーアは、母国のコペンハーゲンに戻ると、原子の内部構造モデルの数式化の研究に着手した。

ボーアは、高温に加熱した物質から放射される光のスペクトル(周波数[=振動数の逆数]の分布のこと)が連続に変化せず、飛び飛びの振動数の光に分割される現象に着目した。この現象にボーアはプランクの量子論を適用することで、1)原子内部の電子は、原子核の外側におけるエネルギーの異なる特定の軌道上を運動する、2)電子の軌道が変わることで放出されるエネルギー差により、飛び飛びの振動数に分割された光が放出される、というモデルを数式で示した。これをボーアによる前期量子論と呼ぶ。

コペンハーゲンのボーアの下には1920年頃より、W.ハイゼンベルク、M.ボルン、W.パウリ、更には英国のP.ディラック等の、20代の若手の天才物理学者達が集結し、原子内部の電子の振る舞いについて、より精密な検討と理論構築が進められた。その成果は1925年にハイゼンベルクにより、行列(マトリックス)という新規な数学概念を取り入れた理論(マトリックス力学)として纏められた。

一方で、マトリックス力学の説明に納得の行かなかったシュレーディンガーは、自らの波動方程式を引っさげてコペンハーゲンに乗り込み、ボーアのグループと激烈な議論を繰り広げた。そこで話題となった波動関数Ψの確率論的解釈や、不確定性原理(粒子のエネルギーをプランク定数と同等以下の微細なレベルに切り分けると、粒子の位置と運動量は同時に決定することができなくなる原則)については、ここでは触れない。

コペンハーゲンでの議論の結果、マトリックス力学と波動方程式は同じ現象に対する数学的な表記の違いであることが明らかとなった。さらに1927にディラックは、シュレーディンガー方程式をアインシュタインの相対性理論の効果を組み込んだ形式に拡張することに成功し(ディラック方程式)、これにより量子力学の基本的な枠組みがほぼ完成された。

量子力学が完成されつつある1922~27年の間に、コペンハーゲンのボーアの下にひとりの日本人青年が留学生として滞在して、物理学で起こりつつある革命の様子を逐一見届けていた。名前を仁科芳雄という。日本に帰国した仁科は所属先の理化学研究所に戻り、当時最新の原子核実験装置であるサイクロトロンの作製に着手すると共に、大学などの研究機関を巡ってコペンハーゲンでの自らの体験を広く伝えた。京大で行われた仁科の集中講義を聞いて運命を変えた二人の学生が、湯川秀樹と朝永振一郎である。

(仁科については、会員専用掲示板で下條先生が丁寧な解説を書かれています。私は物理の素人なので説明がいいかげんですが、下條先生はプロです。会員の方は是非御参照下さい)

1.2大阪大学の湯川研究室

湯川秀樹と朝永振一郎の二人は同時期に京都大学で物理学を専攻したのだが、ノーベル賞に繋がる研究を行ったのは、二人共に京都を離れてからのことである。

京都大学を卒業した湯川秀樹は、数年の間は無給副手(給料を貰うことなく、大学に残る研究員制度のこと。現在は廃止されている)として京大で研究を続けた後に、長岡半太郎を学長として1933年に新設された大阪帝国大学の物理学教室に理論物理学の講師として迎えられた。湯川の赴任から一年後に、阪大の物理学教授、即ち湯川の指導者の立場として理化学研究所から迎えられたのが、当時若干32歳の俊英の菊池正士(きくちせいし)である。

菊池の父親の菊池大麓(きくちだいろく)は、江戸時代末期に幕府から留学生としてケンブリッジ大学に2回も送られて、そこで数学の主席を取り続けたという伝説の人物で、帰国後に日本に初めて西洋近代数学を広めた大数学者である。菊池大麓は東大総長、理化学研究所の初代所長等を歴任し、貴族院議員も努めた国家の要人でもあった。どういう因縁か、私がこの論考を纏める最中に理研を舞台とするSTAP細胞の騒ぎが起こってしまったが、戦前の理研は歴史に残る数多くの名科学者達を輩出した、日本随一の民間研究機関であった。その理研の初代所長を務めたのが菊池大麓であった。

菊池正士も東大理学部卒業後に理研に入社し、1928年には雲母の結晶試料に電子線を照射する実験により、ド・ブロイが予言した電子の回折現象の確認に成功した。菊池よりも半年ほど前にダビッドソンとジャーマー及びトムソンにより、同じ現象が確認されており、彼等はこの成果により後年ノーベル賞を受賞している。菊池は発表が若干遅れたことと、東洋人で周囲の理解者が少ないこともあり、残念ながらノーベル賞を逃してしまう。しかし菊池の実験精度はダビッドソン等よりも高く、結晶内で散乱されて運動エネルギーを若干消失した電子が、再度散乱されることで形成される、線状の回折模様、いわゆる菊池線(キクチライン、キクチマップとも呼ばれる)の発見と生成理論についての明確な説明を与えるものであった。菊池はこの電子線回折の見事な研究により、日本を代表する物理学者の一人として世界の注目を集めることになった。

菊池線の発見は物理現象としての新規性に加えて、工学上の実用性からも現在において大きな意義がある。高エネルギーに加速した電子線を薄くスライスした材料を透過させて、材料の微細構造を調査する、透過型電子顕微鏡(以下透過電顕)という分析技術が1950年代から開発され、材料を原子レベルから解析可能な強力な分析ツールとして現在でも広く使用されている。この透過電顕で結晶材料を分析する際に、菊池線を利用することで、観察面が結晶のどの角度に位置しているかを正確に求めることができる。

1960年代に英国オックスフォード大学のP.B.ハーシュを中心としたグループにより、透過電顕の理論と分析方法について体系的な解説書が書かれている。ハーシュは透過電顕観察の研究によりSirの称号を得た金属材料研究の大家であるが、ハーシュのこの有名な解説書の中に、菊池線の理論と活用法がかなりのページを使って説明されている。結晶材料の分析技術を学ぶ者には、菊池線の理解は今でも必須である。

大阪大学に「超目玉」のスター研究者として招聘された菊池正士は、電子線回折の実験から離れて、理研での仁科と同じくサイクロトロン等の最新の加速器を大学に導入して、原子核反応の実験を開始した。ちなみに菊池の原子核実験をサポートするために、東大から阪大に移って来た研究者が伏見康治である。

後の茅-伏見提案で知られるように、伏見は戦後の日本で原子力研究を始めるための積極的なPR活動を行うことになるが、伏見自らは遂に原子力開発に携わることなく研究生活を終える。原子力の研究に携わることを、あれほど望んでも叶えられなかった伏見であったが、その師である菊池は、後年に日本原子力研究所の理事長に就任し、日本の原子力開発の行方を左右する決定的な場面に立ち会うことになるのは、皮肉な運命の巡り合わせであった。

話を湯川に戻すと、阪大に赴任後の湯川は当初なかなか論文が書けずに苦労したらしい。しかし、ヨーロッパで起こった量子力学の革命的な理論を独自に学びながら、頭の中で原子の挙動についての考察を深めた湯川は、原子核を構成する陽子と中性子とを結合する強い核力を媒介するための仮想的粒子として、電子の200倍の質量を持つ中間子の存在を予測し、1934年に論文として発表する。実験に依らず、理論のみによって新たな粒子を導入するという大胆な発想であり、素粒子物理学の幕開けでもある。

この湯川の第一論文の発表と同じ1934年には京大出身の坂田昌一が、所属していた理研から湯川の助手として阪大に招聘された。坂田は物理学者として湯川と同等レベルのスキルを有する優秀な研究者であり、後年名古屋大学に移った後に多くの弟子を育てた。さらに坂田の着任から程なくして、坂田の友人で京大物理学科の1年後輩にあたる武谷三男が、阪大の湯川の研究室に出入りするようになった。この武谷三男こそが、現在に至る左翼系自然科学者の理論的支柱となる、本論考の最重要人物である。小出裕章等に連なる反原発活動学者の先駆けであり、モデルである。

(以下続きます)

相田英男 拝