[166]ぼやき「1186」に関して(AI、長尾真)

濱田 投稿日:2011/01/26 23:52

会員番号2601番:濱田です。

以前に副島先生の「マーヴィン・ミンスキーの”The Society of Mind”を「心の社会」と訳している時点で、日本のAI学会は根本的にダメなんだ」という文言について触発されてメールを送り、返事をいただいた者です。大学・院と人工知能が研究テーマでした。

今回ぼやき「1186」(AIと長尾真)を読んで副島先生にメールを送った所、こちらに転載して良いと言われましたので投稿させていただきます。

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今回のぼやき「1186」に長尾真氏と電総研の話が出てきたので、久しぶりにメールを出します。恥ずかしながら修士論文は長尾真氏の研究の改良をしてました。

長尾真氏は日本のAI学界の中では珍しく世界的(欧米のAI学会)に認められた学者だと認識しています。日本語文章の解析をテーマとしており、70年代の彼の日本語処理研究は当時のアメリカと同じレベルだったと認識しています。同じように世界的なレベルのAI学者には、東大の甘利俊一氏がいます。彼はニューラルネットワークの理論的解析をメインとしていました。

この2名以外は全員、世界視点で見ると無名です。西垣通氏は色んな意味で、昔だったら教養学部にいるべき人でしょう。学生の頃は日本のAI学会誌を読んでいましたが、彼の論文は殆ど見た事がありません。

最近、話題になっている安西祐一郎氏は認知科学と人工知能の境界線にいました。どっち付かずの内容の論文を書いていた印象があります。早稲田の総長だった白井克彦氏もやっぱり人工知能畑の人でした。長尾氏と同じ研究の方向性だった記憶があります。京大、早稲田、慶応と、人工知能畑の教授がTOPになったのは、第5世代プロジェクトが失敗して皆さんが学内政治に力を入れた結果だと、個人的には思っていました。

私が90年代後半にAI学会誌を読んでいた時点で、「日本の失われた90年代と同じように、日本の人工知能学会にとっても90年代は失われた10年間だった。第5世代プロジェクトの失敗を引きずって・・・」という内容の文面が書いてあった記憶があります。あの頃から「若い人のブレイクスルーが望まれる」と書いてあったのに、結局、次の10年間が過ぎて2010年になってしまった現実です。

人工知能分野の隣接分野にソフトウエア工学がありますが、そこの日本の第一人者もブログに書いていました。
http://home.att.ne.jp/sigma/satoh/diary/diary100930.htmlの2010年8月20日の記事です。今の人工知能の先の無さが率直に書いてあります。
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研究分野を細分化して、テーマを作っているとしか思えない研究が多い。重箱の隅を突くという段階を越えて、隅のないところに小さい隅を作っている感じ

一生懸命、応用事例をあげているのですが、実際に応用して効果があったという発表は少ない、とっても少ない。応用事例をあげていても、その提案方法以外の方法でもうまくいきそうな事例ばかり。

時間が止まったような研究が多い。10年前といわれても気がつかないような研究発表が続いていました。

研究者の入れ替えが怒らず、同じ顔ぶれが2年に一回集まっているのではないでしょうか。参加者の平均年齢が高いのですね。逆に言えば若い研究者はこの分野は避けているということになりますね。少なくても学生さんでも勘のいい方は避けるでしょう。

IEEE Intelligence Magazineだったと思いますが、人工知能の研究論文は人工知能以外の研究者から参照されないという指摘がありました
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結局、Googleのように大量文章を集めて、その中の類似性判断で処理をするのが現在の一番のベスト。人間が一生懸命に推論方法をプログラムするよりもよっぽど確実な結果が出てくる事が多い。それが私も現実だと思ってます。

最近は「セマンティックWeb」という方向性があります。Webを作ったティムバーナーズリー氏が入れ込んでいる内容です。けど、単なるタグ情報を本質的に超えれるのか微妙な気がしてます。ここに関連する内容として阪大の溝口理一郎氏が「オントロジー」を提案しています。知識階層をもうちょっと基本的な所から考えようという動きですが、方向性は納得できるけど、形式化の内容に疑問を感じ
ています。

個人的に思う、人工知能の問題点は以下の通りです。

①人間と全く同じ=「心を持てるか」の泥沼。
 (「ハードプロブレム」「ソフトプロブレム」と内部では分類してます)

②自己概念とは突き詰めると何なのか、何処から生まれるのか?の泥沼

③論理式で知能が表現できると思った欧米の研究者の過信と、それに盲従した日本の研究者の甘さ

④思考言語が存在するのか? それは母語なのか? ぼんやりとしたイメージの操作なのか? 

個人的にはシンプルに考えています。

過去に長尾真氏が一時代を築いた研究は「中学の理科の問題を解く人工知能」でした。当時はこの成功を近接分野に広げることで、最終的に本当の知能ができると想定されていたのですが、失敗しました。その理由をシンプルに中学の9教科で考えます。

「音楽」と「美術」は人工知能は無理でしょう。美という概念は無理だと思っています。出来ても黄金比ぐらい。

「技術・家庭科」は今の産業ロボットで社会的に十分でしょう。

「体育」も最近のロボカップで十分かと。介護ロボットは有用性がありますが、ロボットの二足歩行も人をおんぶすると無理なんですよね。。ここには大きな壁があると思っています。

「社会」は、データベースへのマッチングだけで中学の問題ならば何とかなります。

「理科」は長尾真氏の研究でそれなりに上手く行きました。理科の分野は知識階層が綺麗に作りやすく、化学反応も推論規則として表現しやすいので。

だから問題は「英語」と「国語」です。

中学生の国語の問題が解ければ、それだけで十分だと個人的に思っています。人間ですら他人の心が分かっているとは言えないのだから、そんなのは泥沼の議論をしてもしょうがないです。

「お母さんに怒られて家を飛び出した太郎君。道端で空き缶を蹴飛ばした」というような小説で
「なぜ太郎君は空き缶を蹴飛ばしたのですか?」という問いに
「むしゃくしゃした気持ちだった」を選べる事が出来ればそれで良いと思っています。

それだけでも現在の大量にある文章を今のGoogle以上に分析できます。けど、人工知能の今の発表されている理論ではこれが出来ません。そんな事を大学院の頃は考えていました。今でも出来ていません。人間の感情を有用性のある形でモデル化する事が出来ていないからです。

副島先生の文章でサイエンスという枠組みの厳密な適用について学びました。ならば人工知能はどこまで行ってもサイエンスじゃないですね。人間の感情のモデル化に正しさは無いです。単に有用性しかないです。けど、その有用性さを計測できるレベルに行くのが、遥かに遠いです。

初期に掲げた理想「2010年には完全な人工知能が出来ている」がここまで外れたのなら、現状の率直な反省から出直すべきだと思っているのですが、それを言えるのはミンスキーのような超大御所だけですね。

私は普通に社会人をしながら、休日にこれらの問題について今でも考えています。

大変長い文章となってしまい、真に申し訳ございませんでした。

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[副島先生から返事のメールを抜粋]

メールをありがとうございます。
濱田さまの、 日本の 人工知能 と 認知科学 の研究の現状の 報告文をありがとう。私としては、やっぱりそうなのか、という 気持ち ( 事実判断、認識 エピステーメー)です。 

君は、まじめに 人工知能学を大学でやって、そして、さっさと企業に入ってよかったです。そのまま人工知能( AI エイ・アイ、 アーティフィシャル・インテリジェンス)の研究者になっていたら、それこそどん詰まりの中で、もがき苦しんでいたでしょう。 私は、長尾眞(ながおまこと)には、何の恨(うら)みはないですが、「あんまり、自分だけ、上手に学者商売、学者政治をやって、抜け目なく、生き残るなよな」という、他の 敗残兵となった、多くの 人工知能学者 たち の 怨念を 少しは代弁してあげようと思ったのです。

人工知能研究に20代をつぶしたであろう、君にしてみても、私、副島隆彦の激烈な書き方に、同業界を生きた人間として、わずかに反感はあるでしょう。が、私は、およそどの業界(学界)に対しても、平等に叩(たた)きますから、この私の判断(価値の判定)における厳正な平等主義は理解してくださるでしょう。

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すみませんが、この場を借りて副島先生のメールに返事をさせてください。

副島先生の人工知能学会に関する認識は凄く正確だと思います。ただ、「長尾真氏の業績だけは他の日本人の研究者と比較して良かったと思う」という点を伝えたかっただけです。

副島先生の本を読んでいると「深層格」での文章解析について触れられてる箇所が、数箇所ありました。深層格の必要最少数を決めれなかったのが、人工知能の敗残のつまづきのように思っています。(たとえば道具格とか移動格とかを認めるか?の問題)

院での研究はここら辺の簡素化して、自動化する方向の第一歩だったのですが、教授と喧嘩等して、普通に就職しました。

知能の意味を突き詰めると、「意味があるとはどういう事?」という問題が浮かび上がり、哲学に近くなります。
けど、最終的に意味を保証するのは生存条件以上は宗教とそれに類するモノなんですよね。
それもあって、大学時代は仏教の本もつまみ食いしてました。副島先生の仏教論は非常に楽しく読ませていただいてます。