[1654]秦郁彦(はたいくひこ)氏による慰安婦問題の資料と見解

須藤よしなお 投稿日:2014/09/09 03:59

参考資料:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦・著、新潮社・刊、1999年)

●Wikipedia「日本の慰安婦」内、『仲介業者による中間搾取や不払い』

(引用ここから:Wikipedia「日本の慰安婦」)

『仲介業者による中間搾取や不払い』

秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している。

(引用ここまで:Wikipedia「日本の慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦#cite_ref-hata1999-p394_107-1

(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)

悪質な業者のなかには、何かと名目をつけて彼女たちの稼ぎ高を強制貯蓄させ、払わなかった例もあったようだ。

東部満州の東寧に勤務した元兵士の杉田康一は1938年、4円弱の月給から貯めた1円50銭を持って慰安所へ通った経験を語り、なじみになった朝鮮人慰安婦から「一銭ももらっていません。全部親方が取り上げてしまいます」と聞いた話を回想する。

楼主の不払いは意外に多かったとも思われるが、それもまた終戦で紙屑になってしまったことであろう。

(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)

●Wikipedia「慰安婦」内、『20世紀最大の人道問題』

(引用ここから:Wikipedia「慰安婦」)

『遊郭業者・女衒の手口』

維新政府の娼妓解放令の後も「娼妓達が悲惨な籠の鳥であるという実態は変わらず」、悪徳業者にかかると借金の泥沼から抜け出す事ができず、「まさに前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題(廊清会の内相あての陳情書)に違いない」と秦郁彦は書いている。

(引用ここまで:Wikipedia「慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦

(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)

一見すると、通例の貸借契約書とあまり違いはなさそうで、どこにも売春を強制したり、拘束期問(年季)を示す文言はない。
<中略>
むしろ問題の核心は債務弁済と、それまでの住みこみを規定した第3項にあったといえよう。

悪徳業者にかかると、女の稼ぎから割高の衣食住経費を差し引くので、前借金はなかなか減らず、強欲な親が「追借」を求めたりすると、雪ダルマ式にふえる例も珍しくなかった。

宮尾登美子の小説『寒椿』に登場する貞子(1924年生れ)の場合は9歳のとき、200円で仕込っ子として売られ、小学校卒と同時に妓楼生活に入るが、養母の追借で6年の間に8回住み替えるたびに前借金は1800円から5500円(いずれも年季は5年)まで膨れあがり、終戦を満州の牡丹江で迎えている。

まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった。

(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)

●Wikipedia「秦郁彦」内、『フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題』

(引用ここから:Wikipedia「秦郁彦」)

(※引用者補足:「秦郁彦は」)オランダ人女性を慰安婦として徴用した白馬事件や、フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題などについてはこれを認めている。

(引用ここまで:Wikipedia「秦郁彦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦

(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)

(※引用者補足:「フィリピンの元慰安婦(性被害者)の一人である」)ヘンソンは慰安婦たちのリーダー的存在で、アジア女性基金には反対していたが、その後気持が変り96年8月、第1号として200万円の「償い金」を受けとっている。彼女は女子修道会が経営する私立小学校を卒業する直前に戦争となり、学業を中断したが、英文で回想録の原稿を執筆できるかなり高い知的能力の持主である。

誕生日も知らない慰安婦が多いなかでは、例外的存在と言える。

記述も筋道が通っていて、裏付けや傍証が可能に見えるが、彼女を9か月監禁した部隊名や隊長名がないのは惜しまれる。人名で1人だけ出てくるのはタナカ大尉だがフルネームではなく、ありふれた姓なので特定が難かしい。戦中は抗日で戦後は反政府闘争に転じた共産ゲリラのフク団と、彼女との関わり方もやや不透明である。
<中略>
ヘンソンが捕まったり、奪還されたのはこうした時期であるが、対応する日本軍の記録は見当らない。タルラック憲兵分隊にいた北崎茂三少尉は、神出鬼没のゲリラとの戦いで兵士たちの気持は荒れていたから申立てのような状況は、ありえたろうと語る。

タナカ大尉なる人物は三十三連隊の編制表にはいないが、前記の情報記録綴の44年1月20日には「田中少尉以下がカバナツアン南方で交戦、遺棄死体三、俘虜一〇」の記録が見える。

いずれにせよ、第十六師団は44年5月マニラヘ移動したのちレイテ島へ渡り、同年秋、米軍の大挙来攻を迎え全滅した。生存者は皆無に近い。

ヘンソンを含む21人の元慰安婦の証言を見ると、彼女たちの身の上話は、ヘンソンと大同小異で、横田雄一弁護士の解説では他地域に比べて「被害者と軍とのあいだに民間業者などが介在する余地はまったくなかった。軍の移動中における偶然の遭遇、計画的と思われる女性の自宅への襲撃、作戦行動中の強制連行など、軍の末端組織が・・・有無をいわせず暴力的に女性を(駐屯地へ)拉致」しているのが特徴とされる。

事実、21人の身の上話で、慰安所暮しをしていた女性は一人しかいない。それも拉致されたあとと申し立てている。
<中略>

米軍が再侵攻してくる44年秋までのフィリピン体験を生々しく回想している手記に、高宮亭二『ルソンに消ゆ』(白馬出版、1975)がある。

高宮は京大を卒業して拓務省官吏に就職した直後に召集され、主計将校として43年初めフィリピンヘ赴任した。この頃の占領地風景を、彼は「安きに慣れた派遣軍は、一体何をしていたか。軍司令官黒田中将は、ハンチングスタイルで部隊を巡視し、将兵は紅灯の巷で女とたわむれ、平和の村で恋をささやき、酒色に溺れて――」と記す。

高宮自身もマニラの慰安所に友人から借金してまで通いつめたあとセブ島に赴任、ゲリラ討伐戦に明け暮れたが、合間に慰安婦集めをやらされた。「進んで応募する者もいたが、かたぎの女性を間違えて連行し、後で返すという失敗」もあったという。
<中略>

44年秋から約一年、フィリピン全土は戦火の嵐に席巻された。送りこまれた日本軍60万のうち50万人が戦死し、百万人前後の現地住民が死んだとされる惨烈な戦場で、何が起きたとしても否定のしようがない。

彼女たちの申し立ての多くは事実を反映していると想像するが、逆に傍証のために死者たちを呼び戻す法もない。そうだとすれば、アジア女性基金のような民間べースの救済がもっともふさわしいし、実際に受け取り意志を最初に表明したのも、この国の女性たちであった。
<中略>

彼女たちが概しておおらかで、またカトリックの影響からか、日本人を許すと寛大な気持の人が多いと指摘する人もあり、いささか救われる思いだが、ヘンソンは著書のなかで、「大儲けしようって魂胆ね」とののしられた経験も書いている。

(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)

●『白馬(しろうま)事件』、『南ボルネオの強制売春事件』

(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)

『オランダ――蘭人抑留女性の受難』

オランダ政府の報告書によると、戦時下のジャワを中心とする蘭印(インドネシア)では、15万人を超えるオランダ人が日本軍の管理する捕虜収容所および民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性であった。
<中略>
戦局の悪化により、日本の陸軍省は「軍抑留者取扱規定」(1943年11月7日陸亜密第7391号)を出先各軍に通達し、オランダ人をふくむ敵国人の全員を、捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)。

その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は、売春婦もふくめ軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。

こうした状況に目をつけたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好待遇を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当をつけたようだ。この種の勧誘や説得は表6-5が示唆するように早い段階から始まっていたが、強制性がどこまで働らいたかは微妙なところである。

抑留所を管理していた第十六軍軍政監部(44年に入ると軍直轄へ移行)は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るよう指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。

のちに「白馬(しろうま)事件」と呼ばれたスマラン慰安所の強制売春事件は、女性たちの告発により戦後のBC級法廷で裁かれ、死刑をふくむ十数人の有罪者を出す。

被害者の一人だったジャンヌ・オフェルネが体験を公表したのは1992年のことで、94年1月にはエリー・プローグが一般抑留者7名とともに東京地裁へ補償を求めて提訴する。

ここではオフェルネとプローグの告白を、92年12月来日時の証言と豪州テレビの番組(NHKが96年8月16日放映)などから要約紹介しよう。

(※引用者注:証言ここから)

  ジャンヌ・オフェルネの証言

1923年、オランダ人砂糖黍農園主の娘としてジャワのスマランに生れる。1942年、19歳のとき、母・妹とともにアンバラワ抑留所に入った。

44年2月のある日、日本の軍人たちがトラックで来て、17歳以上の独身女性が整列させられ、検分して16人の少女が残された。悲鳴や泣き声のなかを連行され、売春宿に入れられた。

次の日に日本人から慰安婦の仕事をやるよう命じられ、3月1日に開館すると、将校たちがやってきた。食堂のテーブルの下へ逃げこんだが、引きずり出され、抵抗したが軍刀でおどされ強姦された。

あちこちの部屋で泣き叫ぶ声、それから連日のように暴行がつづいた。髪の毛を切って丸坊主にしてみたが効果はなかった。検診する軍医からもレイプされた。3か月後に解放され、列車でボゴールの抑留所へ移り、家族と再会した。戦後、オランダヘ帰って理解のある夫と結婚、オーストラリアヘ移住。2人の娘がいる。

日本人がやったことを今は許しているが、忘れることはない。

  エリー・プローグの証言

1923年オランダに生れ、父母とともに東部ジャワヘ移住、母、姉弟とともにスマランのハルマヘラ抑留所へ入った。

44年2月、15~35歳の女性たちが集められ、5~7人の日本軍入の前を歩かされ、3日目に私をふくむ15人が選び出された。バスで慰安所に着いて、はじめて「日本兵に喜びを与えるのだ」と知らされ、逃げると家族に危害が加わるとおどされた。

2月26日クラブがオープンし、軍人たちは写真で好きな女を決め、切符を買って私たちに性サービスをさせた。カネはもらっていない。3か月後に解放される。戦後に結婚したが離婚。

(※引用者注:証言ここまで)

1948年3月24日、オランダ軍事法廷は、「考え得る最も悪質な」犯罪と判決、当事者である南方軍幹部候補生隊の岡田少佐を死刑、能崎中将(隊長)に懲役12年、池田大佐に同15年など11人に2年~20年の有期刑を科した。そのなかには4か所の慰安所を経営する4人の日本人業者がふくまれていた。

BC級裁判の法廷は慰安婦にされた35人のうち、25名が強制だったと認定している。1994年のオランダ政府報告書も、蘭印各地の慰安所で働らいた200~300人の白人女性のうち少くも65人を強制売春の犠牲者と判定した。

怒りの感情とは離れ、事実関係を冷静に見究めようとするオランダ官憲の公正な手法に感銘する。

残りは自発的志願者ともとれるが、吉見義明教授は「強制の認定やそのもととなる強制の定義が狭すぎるのではないか……視角の狭さを感じる」とオランダ政府報告書への解説のなかで苦言を呈している。
<中略>

いずれにせよ、スマランの慰安所は長くても2か月しか営業していない。ジャカルタの第十六軍司令部から閉鎖命令が届いたからである。

オランダ政府の報告書は、娘を取られた抑留所の親が、視察に来た陸軍省の大佐に直訴したためとしている。

だが軍政監部本部に勤務していた鈴木博史大尉は「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第十六軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐ止めさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た……のちに彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」と記憶している。

私は、この鈴木証言の方が正しいのではないかと想像する。
<中略>
オランダ政府が当時も今も関心を払うのは被害者がオランダ人女性だった場合に限られるようだ。
唯一の例外は、海軍の占領統治下にあった南ボルネオの強制売春事件である。

一千人以上の現地住民を抗日分子として大量処刑したポンチャナク事件(1944年初期)の副産物として明るみに出たもので、主として日本人の現地妻となっていたインドネシア女性を強制的に慰安婦としたかどで、13人の海軍特警隊員らが有罪(うち三人は死刑)となった。

(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)

●秦郁彦氏のコメント

(引用はじめ:Wikipedia「秦郁彦」)

2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている。

※典拠:『諸君!』2007年7月号 秦郁彦、大沼保昭、荒井信一「激論 「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」

(引用おわり:Wikipedia「秦郁彦」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦

●ウェブページ「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

(引用はじめ:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。

それら口述資料を用いて個々の事例を考察していきます。

<中略>

最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。

■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言

場所:中国中部の山東省

(引用はじめ:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

1941年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本人女性200人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。

(引用おわり:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

(引用おわり:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1