[1647]本能寺の変の実行犯は彌介である
今日は2014年8月24日です。
会員番号2285番です。
本来は実名投稿であるべきですが、女性であり、不特定多数の閲覧可能な掲示板であるため、会員番号にて投稿いたします。
また、長文にわたるため、2回にわけて投稿いたします。
(はじめ)
私はこの夏、『本能寺の変 431年目の真実』(以下「431年目の真実」という。)という本、そして、今日のぼやき会員ページ『「1459」 副島隆彦が、話題書の書、明智憲三郎・著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社)を読む。2014年6月23日」』(以下「今日のぼやき」という。)を読みました。
一言で言えば、衝撃的で重要な内容でした。
1.本能寺の変の実行犯は彌介である。
「今日のぼやき」で、副島隆彦氏は、ズバリ、「本能寺の変の実行犯は彌介である」と指摘している。
(引用はじめ)
ということは、ここから先は副島隆彦の予測ですが、この黒人奴隷の彌介が信長のすぐそばにいて、1年4カ月ぐらいの間全ての情報・知識をオルガンティーノやカリヨンに伝えてたはずなんです。
私は去年出した『闇に葬られた歴史』(PHP刊)の第5章か6章で、信長の本能寺の変を実行したのはこのイエズス会であると。イザベラ大砲という組み立て式の大砲でこの南蛮寺から射かけて、一瞬のうちに本能寺を燃やし尽くしたと。この説は八切止夫という歴史作家の説です。この八切止夫の文章を引用しています。
そこでは、あるいは前もって爆薬を本能寺に全部仕掛けてあったのだろうと。なぜなら前の日まで全部雨が降っていて、とても急に火がついて燃えるようなものではないと。ほとんど一瞬のうちに燃え尽くして、信長の死体も何も残っていません。これは歴史の事実です。そうすると、やはり彌介がスパイとして潜り込んでいて爆薬を仕掛けたのだろうと私は思う。
(引用おわり)
「本能寺の変の実行犯は彌介である」で、色々な謎が解けてくる。
大前提として、殺人事件の実行犯は、殺人が行われたその時、その現場にいるはずである。
彌介はこの条件に該当している。
まず、本能寺の変の現場は2つある。
一つ目は、信長の宿泊していた本能寺、二つ目は、信忠が逃げ込んだ二条御所である。
一つ目の本能寺では、彌介は、信長の小姓として、本能寺にいたはずである。
二つ目の二条御所では、明智憲三郎氏が、彌介はその現場にいたと指摘している。
「431年目の真実」182ページから引用する。
(引用はじめ)
それについてフロイスは『一五八二年日本年報追加』の中で次のように書いている(村上直次郎訳『イエスズ会日本年報 上』)。
「ビジタドール(巡察師)が信長に送った黒奴が、信長の死後世子(信忠)の邸に赴き、相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けと言った。これによって我等は少しく安心した」
(引用おわり)
2.信忠は二条御所に誘い込まれて殺された。
いわゆる本能寺の変では、まず、信長、その次に信忠、という順番で、殺されていった。
この順番には意味がある。
私は、信長より、信忠のほうが、殺すのが難しかったからだと思う。
以下、当日の信忠の行動を、『新人物文庫 現代語訳 信長公記』525ページから引用する。
(引用はじめ)
織田信忠はこの変事を聞き、信長に合流しようと思い、妙覚寺を出たところ、村井貞勝父子三人が駆けつけてきて、信忠に言った。「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の新御所は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう」と。これを聞いて、ただちに二条の新御所へ入った。
(引用おわり)
この信忠の行動は、あらかじめ読まれていたのではないか。
ここで、村井貞勝の提案は、当面、構えの堅固な二条御所に立て籠もって、時間稼ぎを図るということだったに違いない。
また、この提案は常識に沿っており、突飛な提案というわけではない。
しかし、これこそが、犯人の思う壺だったのではないか。
そもそも、信長は本能寺、信忠は、二条御所のすぐ西隣にある明覚寺と、宿泊場所を分けていたのは、親子の共倒れを防ぐためである。
彼らの危機管理はしっかりしていた。
しかし、そのあってはならない共倒れが起きてしまった。なぜだろうか。
ここで、彌介(とその背後にいるイエズス会)にとっては、行動を把握しやすいのは、信長の方だったに違いない。
なぜなら、彌介は、あくまで信長の小姓であって、信忠の小姓ではないからである。
信忠の細かい行動を把握しづらいために、”信忠が確実にその場所にいること”を確定しておく必要があったと思う。
だからこそ、1.信長、2.信忠の順番で殺さなければならなかった。
いわば、信忠は、狩りの獲物が、ある場所に誘い込まれて殺されるように、殺されたのである。
そして、”狩りの獲物”つまり、信忠が誘い込まれたその”ある場所”、つまり、二条御所に、はじめから、爆薬が仕掛けられていたのだろう。
その爆薬に点火したのは、この現場にいた彌介しかいない。
なお、『信長時代の本能寺とその周辺』という地図が、『歴史街道 2014.9』29ページに掲載されている。
距離感がつかみやすく、現場が皮膚感覚で捉えられ、非常に参考になる。
3.彌介に火薬の取り扱いの知識及び経験はあったのか?
しかし、”爆薬に点火”するほどの知識及び経験を、彌介は持っていたのだろうか?
私は、持っていたと思う。
たしかに、信長に献上されるまでの彌介の経歴はわかっていない。
また、「431年目の真実」によると、本能寺の変の後の消息も不明のようである。
しかし、天正十二年三月の島原合戦に、彌介らしき人物が見える。
著 安野眞幸『教会領長崎 イエズス会と日本』(講談社選書メチエ)152ページから153ページまで引用する。
(引用はじめ)
天正十二年に有馬氏は再度島津氏の援軍とともに島原城を攻撃したが、その島原包囲陣にイエズス会士や教会領長崎の関係者が参加していた。「一五八四年八月三十一日付フロイス書簡 25」にはつぎのようにある。
ドン・プロタジヨ(有馬晴信)は聖週となって、陣所に大砲二門を据付けた。これは日本では甚だ珍しいもので、操縦する人は少なかったが、この際偶然砲に装薬することのできる黒奴が一人居合せ、また隆信が不当に殺すことを命じたため、大村より高来に逃げてきたマルチニヨといふキリシタンの兵士があってこの人が砲の狙をつけ、マラバルの人が火を附けた。
大砲は薩摩の兵に取って珍らしく且驚くべきものであったが、敵城内の人々には甚だ面白からぬものであった。暗黒の木曜日及び金曜日に発射した多数の砲弾は木造の家に入って大なる音を立て、この珍らしい物に対する驚愕による城内の婦人及び小児の叫喚は、ドン・プロタジヨの陣所まで聞えた。
ここでフロイスの記録が「敵城内の人々」に同情的なのは、この島原城に大村兵三〇〇がいたからである。文中に「黒人奴隷」やインド西海岸の「マラバル人」や大村氏の逃亡兵「マルチニヨ」が偶然居合わせたとあるが、彼らは〈教会領長崎の砲台の守護兵〉で、イエズス会が派遣したことを隠すために、このような言い方をしたと思われる。
(引用おわり)
なお、註25として、同書205ページには「25『イエズス会日本年報 上』(『新異国叢書3』)雄松堂、一九六九年、三四一頁。」とある。
私は、この”日本では甚だ珍しい”ものである”砲に装薬することのできる黒奴”が彌介であったと思う。
そして、本能寺の変の後、彼は、”教会領長崎の砲台の守護兵”になっていたのだろう。
というより、もともと、「砲兵」である男が、そもそものはじめから、計画的に、信長に、小姓として献上されたのだ。
(続く)