[1615]「インドネシア 1965年9・30クーデター事件」について考えたこと
「インドネシア1965年9・30事件の謎について考えたこと」
投稿者 田中進二郎
今日は2014年6月8日 です。
ちょうど一ヶ月前の「今日のぼやき」(会員ページ 1447)に副島先生の、「『デヴィ・スカルノ回想記』からみるインドネシア戦後史の悲惨」という文章があります。
これに関連した映画『アクト・オブ・キリング』(The Act of Killing)が現在上映されています。副島先生も見られたそうです。この映画が公開になる前に、特別試写会でデヴィ夫人が、インドネシアで1965年のクーデターのあとに起こったことを話しています。この映画を私も見ました。また、デヴィ夫人の以下の文を読みました。
この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文 より前半部分を引用します。少し長くなります。
(引用開始)
60年代にインドネシアで行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちにカメラを向け、虐殺の模様を映画化するために彼らに殺人を演じさせたドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月12日(土)よりロードショー。公開にあたり、3月25日にシネマート六本木で行われた特別試写会で、元インドネシア・スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が登壇した。デヴィ夫人は1962年、当時のインドネシア大統領スカルノと結婚し、第三夫人となった。1965年9月30日に、後に「9.30 事件」と呼ばれる軍事クーデターが勃発。夫スカルノは失脚し大統領職を追われ、デヴィ夫人自身も命からがら亡命した。今作は、その「9.30 事件」によって起こった100万とも200万とも言われる虐殺を描いている。試写会当日、映画評論家の町山智浩(まちやま ともひろ)さんの司会により、デヴィ夫人は自らが体験したクーデターの現場の模様や、アメリカや日本が当時の政権を支持することでクーデターや虐殺に関与していたことを生々しく語った。
「デヴィ夫人によるトーク」
デヴィ夫人: スカルノ大統領は別に共産主義者ではありませんし、共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。あの当時(この映画の背景となっている1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」)、アメリカとソ連のパワーが世界を牛耳っていた時に、スカルノ大統領は中立国として、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの勢力を結集して第三勢力というものをつくろうと頑張っていた為に、ホワイトハウスから大変睨まれましておりました。太平洋にある国々でアメリカの基地を拒絶したのはスカルノ大統領だけです。それらのことがありまして、ペンタゴン(アメリカの国防総省)からスカルノ大統領は憎まれておりました。アメリカを敵に回すということはどういうことかというのは、皆さま私が説明しなくてもお分かりになっていただけるかと思います。
1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。
7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。そして赤狩りと称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられて殺されたといった事件が起こりました。この度、この映画で初めてそれが事実であるということが証明されて、私は大変嬉しく思っておりまして、ジョシュア・オッペンハイマー監督には、その偉業を本当に心から心から感謝してやみません。何十年間と汚名を着たまんまでいたスカルノ大統領ですが、この映画で真実が世界的に広まる、ということにおいて、私は本当に嬉しくて、心より感謝をしております。
「当時日本の佐藤首相はポケットマネー600万円を、
殺戮を繰り返していた人に資金として与えていた」
町山:クーデターが起こった時、どちらにおられましたか?
デヴィ夫人:私はジャカルタにおりました。大統領もジャカルタにおりました。(スハルト将軍は)大変頭の良い方で、それがクーデターだとなったというのは結果的なもののわけで、要するに、その当時のインドネシアの情勢を完全に彼が握ってしまったということなんですね。そして当時の空軍、海軍の指導者たちにも国民から疑いの眼を向けられるようにしたりしました(*スハルトは陸軍大臣兼陸軍参謀総長)。その当時のアメリカ、日本はスハルト将軍を支援しています。佐藤(栄作)首相の時代だったのですが、佐藤首相はご自分のポケットマネーを600万円、その当時の斉藤鎮男大使に渡して、その暴徒たち、殺戮を繰り返していた人に対して資金を与えているんですね。そういう方が後にノーベル平和賞を受けた、ということに、私は大変な憤慨をしております。
(以下略 引用終わり)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/ (以下こちらをご覧ください)
田中進二郎です。デヴィ夫人の以上の話を読み、私は佐藤栄作首相(当時)や、インドネシア大使斉藤静男(当時)という人物が、クーデター計画に加担していたことにショックを受けた。しかし、「スカルノ大統領が共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。」というところは、「それは違うのでは?」と思いました。
映画『アクト・オブ・キリング』では、虐殺して回った民軍は、パンチャシラ青年団といい、インドネシア全土に現在も300万人の団員がいるという。オレンジ色の迷彩服を着て、集会を開く。この映画の主人公も、この団員であり、約1000人の華人や共産党員(PKI)を自らの手で殺したというチンピラヤクザである。 「パンチャシラ」―(インドネシアの建国五原則)の掛け声のもと、9・30事件のあと、スハルトの命令に従い、金で大量虐殺を実行した集団である。彼らは、1998年にスハルト独裁体制が終焉したあとも「国民的英雄」とされてきた。政府軍が手がけるとまずいという汚い仕事(暗殺)を、民兵に代わりにやらせる。インドネシア政治研究家の本名純(ほんな じゅん)氏によると、「国家暴力のアウトソーシング」だということだ。だから、完全に組織されている。
本名純氏の『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』という本によると、このパンチャシラ青年団というのは、1954年に陸軍のナスティオン将軍によって組織された。ナスティオン将軍は、インドネシア独立当時(1945年)の国民軍を再び民兵として組織していった、ということである。
これは、インドネシア共産党の躍進をスカルノ大統領が応援し、自分の権力基盤を固めようしたことに対する、軍部の対抗策だったのである。
ナスティオン将軍は1965年の9月30日のクーデターの際に、邸宅を襲撃されたがかろうじて脱出に成功している。PKI寄りの左派軍人が起こしたとされるクーデターで、まっさきに命を狙われたのだ。
デヴィ夫人の自伝『デヴィ・スカルノ回想記』(p149~151)には、PKI派のクーデター部隊があっけなくスハルト将軍率いる国軍に鎮圧されたあと、デヴィ夫人はナスティオン将軍の妻と極秘で連絡を取り合い、情勢を把握しようとした、と書かれている。このときには、すでにイスラム団体や学生団体が国中で反スカルノ・デモを展開していた。ナスティオン将軍を、スカルノ大統領と軍の間のキャスティング・ボートになってもらおうと、デヴィ夫人は必死でスカルノ大統領の説得にあたった。が、彼女の願いは大統領には聞き入れられなかった。スカルノ大統領にとっては、1950年代に軍が彼にたてついたこと、その裏にいつも、アメリカのCIAがいたことが脳裏から離れなかったのだろう。
千野境子(ちの けいこ)著『インドネシア9・30クーデターの謎を読み解く―スカルノ、スハルト、CIA,毛沢東の影』という本では、クーデターの直前に、CIAがインドネシア共産党とスカルノ大統領を追い詰めていくために、偽造文書を作成したことが書かれている。この偽造文書は、「近くインドネシア国軍が武力で共産党を弾圧することが、『将軍評議会』において決まった。」という内容のものだったという。この文書をスカルノ大統領や、PKI議長のアイディッドが目にして、PKI側は先にクーデターを仕掛けることになったのだ、と千野氏は指摘している。
(同書 第四章「アメリカの工作」を参照した。)
1950年代からのCIAの次々と行われる工作に対して、「共産主義者ではなかった」スカルノ大統領も、PKIのクーデターを容認したのであろう。しかし、軍事行動に打ってでたPKIは、その動きをもつかんでいたスハルト将軍に逆にパクリとやられてしまったのだ、と私は考える。このあとは、アメリカCIAにとっては、やりたい放題だったろう。新聞紙、テレビなどメディアを総動員して、共産党員は吸血鬼か悪魔であるかのように、宣伝した。「残虐な共産党員」という映像をCIAは9・30事件の時までにすでに製作していたからである。デヴィ夫人が『回想録』の中で書いている。「こんなものは今までインドネシアのメディアにはなかったものですから、おそらくアメリカによって、準備されていたのでしょう。」と。
ここから、インドネシア全土で「赤狩り」虐殺が始まり、共産国以外では最大勢力(350万人の党員を擁していたという)インドネシア共産党は壊滅した。アイディッドPKI議長も逃亡後、銃殺された。また、このアイディッドを後ろから「武力革命をせよ」とけしかけていたのは、ほかならぬ毛沢東であった。毛沢東は大躍進運動に失敗し、劉少奇(りゅうしょうき)や鄧小平らが中国共産党を現実路線に移行させていくのを、黙って許すことはしなかった。PKIが壊滅していく中、「盟友」だったはずの中国は動かなかった。国連(United
Nations 連合国)もまた動かなかったけれども。9・30事件から二ヶ月もたたない十一月に中国では文化大革命が始まるのである。毛沢東はアジアへの「革命の輸出」に失敗したとみてとると、次は中国国内の現実路線の政治家たちを追い落とすことに本格的に動きだしたのである。毛沢東にとっては、PKIの党員や、インドネシアにいる華人たちの運命や、
ましてや、インドネシアの農民たちがどうなろうとどうでもよかっただろう。もう用済みだ、と考えていただろう。文革の始まる前に、『毛沢東語録』(the Red Book)をなんと5億冊も印刷させている。(このことは新刊『野望の中国近現代史―帝国は復活する』オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦 訳 のp281 にありました。)
これは中国とインドネシアの関係に今でも影響を及ぼしているという。つまり、スカルノ大統領の時のように、中国を政治の世界で全面的に信頼してはいかん!という教訓が後々のインドネシアの政治家たちに引き継がれている、ということである。
大変長々と書いてしまいました。恐縮です。
●参考文献
『デヴィ・スカルノ回想記―栄光、無念、悔恨』 (草思社 2010年刊)
千野境子著『インドネシア 9・30クーデターの謎を解く』(草思社 2013年刊)
本名純著『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』(岩波書店 2013年刊)
オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦訳『野望の中国現代史―帝国は復活する』(ビジネス社 2014年6月刊)
追記:映画『アクト・オブ・キリング』はまだ上映されているようです。
田中進二郎 拝