[1612]天武天皇の正統性について
『古事記』偽書説の誤り
岡田英弘先生は『日本史の誕生』で『古事記』は、平安朝になってから書かれたもので、古事記序文の「和銅五年(西暦714)に太安万侶によって書かれた」と言うのは誤りであると述べられている。この説は古くは江戸中期の賀茂真淵に始まり根強く支持されてきたものである。
しかし、この『古事記』偽書説は、完全に否定されている。これは二つの立場から立証できる事である、一つは、奈良朝(天武天皇を祖とする王朝)と平安朝の性格の違いから立証する事と、国語学から立証する事である。
今日は、王朝の性格の違いから『古事記』偽書説の誤りを指摘したい。『日本書紀』『古事記』を一読すれば明らかなように、天武の王朝の修史事業の目的は、天武天皇の即位を正統化する為にあった。「壬申の乱」で天智天皇の長男・大友皇子を滅ぼして皇位に就いた天武を正統化する事であった。
以前、私は天武天皇(大海人皇子)は、近畿大和王朝の人間ではなく、筑紫に都した倭国の大皇弟であることを立証した。倭国の大皇弟が、自らを近畿大和王朝の天智天皇の実弟と挿入することで、「万世一系」なるドグマ(教義)を作り上げたのであった。
天武の修史は、単なる歴史の記述ではなく「正統性の創造」にあった。『古事記』『日本書紀』また『万葉集』も天武天皇の正統性、「壬申の乱」での天武の決起の正統性を全力をこめ高らかに主張している。
しかし、平安の王朝は、天武の王朝ではない。奈良時代末期天武の血を継ぐ皇孫達は、強制的に排除され、天武の血の混じらない天智天皇の後胤が探し出され擁立されたのである。光仁天皇である。光仁天皇が皇太子に擁立された時は、すでに六十歳を過ぎていた。平安京を開いた桓武天皇の父である。
天武の血の排除は、天智天皇の片腕であった中臣鎌足の子孫・藤原氏よっておこなわれた。奈良王朝と平安の王朝は、異なった王朝である。天智天皇の血が復活した王朝で、天武天皇を正統化する歴史など作られるはずはないではないか。
今日は、王朝の性格の違いから『古事記』偽書説は成立しないことを述べた。次回は国語学から『偽書説』が成立しないことを説明したい。